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山崎達光氏 散骨式

11/13(土)、愛知県蒲郡市にて、故・山崎達光氏(元エスビー食品会長、ニッポンチャレンジアメリカ杯会長、以下:会長)の散骨式が営まれた。これ以上は考えられないロケーション、雲ひとつない晴天と、11月中旬とは思えない快適な陽射しと風、多くのゲストを乗せる最高の船、そこに最高の仲間が大勢集まった。


3/20、聖イグナチオ教会での会長の納骨式の後、形見分けを頂戴しにご自宅へ伺った際、散骨を蒲郡でやってはどうか、との話が出た。当初、散骨は関東の別のマリーナで企画していたが、そこよりも蒲郡の方が相応しいのでは、という意見が主にニッポンチャレンジスタッフから出た。

蒲郡と言えば、アメリカズカップに挑戦したニッポンチャレンジがベースキャンプを置いていた街。施設の中に、艇庫やセールロフト、クルーのトレーニング場、オフィス等がひしめく、まさにシンジケートベースだった。PRスタッフだった自分は、ここには数回しか来ていないが、新艇進水式等大きなイベントを行うなど、思い出深い場所。

現在はもちろんベースキャンプの跡形もなく、今は広い敷地に挑戦艇(JPN-6)の残骸が展示され、隣にぽつんとイタリアンレストラン「オンディーナ」。海を眺める広くて気持ちのいいテラス席から、船が離発着できる桟橋もある。

そして、蒲郡駅から車で約15分のラグーナテンボス(旧:ラグーナ蒲郡)内に、クルージングサービスのセイルウイングがあり、約30人乗りのヨットニッポンチャレンジ号(“海の貴婦人”と言われる60ft SWAN)そして約60人乗り大型クルーザースナメリ号がある。これは、元ニッポンチャレンジクルー平野君が、2000年のアメリカ杯挑戦終了以降継続して船を維持、三河湾クルージングサービスを提供してくれている。

この恵まれたロケーションとインフラを使わない手はなく、また会長にとっても、特に思い出深い海面である事は間違いない。

話はトントン拍子にまとまり、9/4(土)開催が決定、すぐさまニッポンチャレンジのスタッフと会長がオーナーを務めていたサンバードのクルーにより、実行委員会が組織された。自分はプロデューサー役を仰せつかり、企画、進行、演出、運営等を任された。実行委員会の会議はオンラインで開催され、時には会議の後に“Zoom飲み”も交えながら、皆の会長の思い出を棚卸しする作業が続いた。
しかし、世は五輪開催とほぼ同時にパンデミック感染、緊急事態宣言とまん延防止等重点措置が交互に発出され、9/4開催は見送らざるを得なくなり、延期を決断。感染拡大が収まる気配もなく、リスケ日程もすぐには決められずにいたが、調整の末11/13(土)開催を決定。この時点で、万が一ゲストを招いての開催が難しければ、実行委員とご家族だけでも散骨を決行すると決める。文字通りの背水の陣。

10月の声を聞いたあたりから、新規感染者数が減じはじめ、緊急事態宣言も解除。ゲストからの参加連絡も続々到着した。式の準備もペースアップし、ゲストに配布する年譜や、パーティでかけるBGMの選曲等が進む。余談ながら、こうした仕事において、「神は細部に宿る」と信じており、年譜のデザイン、BGMの構成にもひとつひとつこだわりをもって仕上げていった。

残る心配は当日の天候。季節柄台風も考慮しないとならず、およそ3週間ほど、毎日現地の予報をウォッチする日々が続くが、当日の予報は快晴、降水確率0%、最高気温17度、最低気温11度と、この時期にしては最高のコンディションが予想された。


いざ、当日。実行委員は前日から会場入りし、準備にあたった。
来場者総数、110名、散骨式に参加した艇数、7艇。主催者が準備した前述のニッポンチャレンジ号、スナメリ号に加え、ラグナマリーナからイエローテイルⅢ(トヨタPonam28)、ソヴァール(トヨタPonam28)、ヤマハからクレールアヴェニールⅡ(YAMAHA SF-31)、更に2艇が参加。フリートはマンボウ桟橋を出港後、三河大島南の岩礁、仏島へ。ご家族が水に溶ける紙に包まれたご遺骨を海に還した。ご遺骨は、もう少し海面をたゆたうかと思ったら、意外に思うほどの速度でためらうことなく海底に沈んでいったとのこと。長女かおりさんのお話では、もう思い残すことなくいったのだと、区切りを感じた、と。参加者は花びらを献花、最後には会長の好きだったスーパーニッカを献酒して、散骨式は無事終了。

続く偲ぶ会は、これも前述のレストランオンディーナのランチボックスと、お酌の要らない缶飲料で、感染対策万全のパーティ。雲ひとつない晴天と心地よい海風に吹かれながら、デッキに座ってお弁当を食べるゲストの姿は、何故だかとても感動的だった。

式典では、ニッポンチャレンジを受け入れてくれた当時の金原蒲郡元市長や、会長が名誉会長を務めた日本セーリング連盟の中川顧問、ニッポンチャレンジのオペレーションディレクターでノースセールジャパンの菊池顧問、サンバードスタッフ石合氏らのご挨拶がつづく。スピーチコーナーで感じたこと、自分は、これほどにすべてのゲストが来賓のスピーチをちゃんと聞いているパーティを、見た記憶がない。会長の思い出話を、皆聞きたかったということか。

海外からもメッセージが届く。クリス・ディクソン、ジョン・カトラー、ピーター・ギルモアらニッポンチャレンジの歴代外国人スキッパー、ヘルムスマンからのスピーチに続き、惜しくも外洋レースでの落水により他界された95年スキッパー南波誠氏の長男、南波岳さんのスピーチに、一同涙をこらえる一幕も。

あっという間に偲ぶ会は終わりの時間を迎え、実行委員会の紹介と、綾子夫人のご挨拶、そしてニッポンチャレンジ・オフィシャルフォトグラファー添畑薫氏による、サプライズ(?)ドローン撮影で、1次会は終了。

2次会は、場所を代えずに、同じ場所で持ち込みのワインやウイスキー、乾き物をつまみながら語らい続ける。2次会費用の足しにと、ドネーションを募ったところ、集めにまわったニッポンチャレンジスタッフKayの圧(?)の所為か、思いもよらないたくさんの寄付が(会計上大変助かりました、ありがとう!)。

名残は尽きないけれど、2次会も終わりの時間に。テントをたたみ始めると、頼みもしないのに、今日のために小樽から駆けつけてくれたニッポンチャレンジ透氏が仕切り始めたり、パネルや模型をどうやって東京に送るか途方に暮れていたら、ニッポンチャレンジ東島氏が俺がクルマで運ぶと申し出てくれたり。準備段階では、ファイティングフラッグとバナーを提供してくださったノースセールの菊池氏、鹿取氏、山下氏。設営の時に、いつのまにかちりとりとほうきをどこかで買ってきて受付まわりを掃除してくれた千里さん。他にもサポートしてくださったみなさん、本当にどうもありがとうございました。

東島氏の言葉「オレもニッポンチャレンジのメンバーだから、頼まれたからやるんじゃなくて、自分の仕事だからやるんだよ」。
結局、そういうことなのだ。
全員が、山崎会長を見送るために、他の誰のためでもなく、自分のために、自分ごととして参加してくれた。だからこそこんなにも温かい素晴らしいパーティが開催できたのだと、心から感じた。準備の最中も式の最中も、なんというか、例えばニッポンチャレンジの初代キャンペーンディレクター名畑氏と朝日新聞松本氏のおよそ30年ぶりの再会とか、そんな細かい良いシーンを目にして、人知れず目頭熱くしていた。

会長、いかがでしたか、ご満足いただけましたか?
夫人によると、会長はオレが死んだら散骨してくれ、とは、実はひと言も言ってなかったらしい(オレが死んだら盛大にやってくれ、と言うのは複数の関係者が耳にしている)。しかしながら、まわりのすべての人間が、会長を海にお還しすることに何の違和感もなく、みんなで海でお見送りできて、本当に良かった。

準備期間は約8ヶ月。短くない時間であるが、自分にとって会長と向き合える大変に良い時間、愛しい時間だった。コロナ禍でなければ、せいぜい2〜3ヶ月の期間であったろう、8ヶ月も良い時間を過ごすことが出来たのは、ひょっとしたらコロナのお陰で良かったことの数少ないひとつかもしれない。

会長、お疲れさまでした。
三河湾でスナメリたちと安らかにお休みください。


最後に、8ヶ月共に準備を進めてきた、実行委員会の井関アヤ坦、飯泉CFO、鷲尾GM、石井SB坦、三浦FD兼MC、小川NC坦兼PD、平野スキッパー、そしてオブザーバーとして実行委員にご参加いただいた長女のかおりさん、本当にありがとうございました。感謝を込めて。

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