山崎達光ニッポンチャレンジアメリカ杯会長、逝去
南波よ、もしお前が今まだどこか南の島の木陰で休んでいるのなら
そろそろ出てきてチームに合流してくれ
そうでないのならば そこからオレ達に風を送ってくれ
1997年の夏の一番暑い盛りに、京都産業大学の講堂で催されたセイラー南波誠さんを偲ぶ会での、山﨑達光ニッポンチャレンジアメリカ杯会長のスピーチである。
リーダーの資質、というのは色々あるのだろうけれど、人の心を惹きつけるスピーチというのも、そのひとつだと思う。この時の会長のスピーチは、そこにいた多くの参列者の涙を誘った。自分もこの時、この方について行ってみたいと、そう思った。
その山崎会長が亡くなった。享年86歳。12月6日、自宅にて、死因は虚血性心不全。前日普通にお休みになり、そのまま起きてこなかったという。苦しんだご様子はなく、安らかな死だったであろう、というのがせめてもの慰めか。
思い出は数え切れない。アメリカズカップに、ニッポンチャレンジは92年大会、95年大会、2000年大会の3大会に挑戦を果たした。自分のキャリアで言うと、92年はまだ新人で名古屋支社勤務、ベースキャンプが愛知県蒲郡市に置かれていたので、新艇の進水式やシッピング等のイベントのスタッフとして携わった。元々ヨットに無関係だったため、アメリカズカップのアの字も知らず、ただただとてつもないイベントなのだと実感した程度。95年はもう少し関わり深く、東京のメディアルームのスタッフの一員だった。このあたりでもまだ、会長と直接お話しする機会はほとんどない。なんと言ってもクライアントのトップだし、当時現役のエスビー食品会長。世界で2番目に大きいスパイスメーカーの経営者だ。2000年にかけては、PRとキャンペーンのメインスタッフとして関わり、本戦中はオークランドのプレスルームに常駐した。PRスタッフとは言え、シンジケートの一員として、共に世界の頂点を目指して戦った。その後、2003年大会に向けて一度参戦表明するが、資金難にて撤退。アメリカズカップのプロジェクトはここで幕を閉じる。その後は愛知万博関連イベント等で少し関わったが、この頃から仕事としてよりも、ニッポンチャレンジの集まり等のプライベートの場でお目にかかる機会が増えてくる。決定的に親しくさせて頂くようになったきっかけは、2年前。小日向の会長のご自宅が、ご夫妻では広すぎるためにマンションに引っ越すことになり、ついては家中にあったおびただしい数のセーリング関連アイテム(ヨットのハーフモデル、レースのトロフィ、置物や飾り物、書類、資料、ビデオ等)を処分したいので手伝って欲しいとお声がかかった。まずはすべての品を写真に収め、リストを作り、あれこれ調整の末にサンバード関連は元クルーの手に、ニッポンチャレンジ関連は蒲郡市に寄贈することとなった。思い出の蒲郡で、会長から市長への贈呈式も行われた。これら一連の引っ越しプロジェクトのあと、インタビュー記事「私の哲学」で会長にご登場頂くこととなり、思いで深いシーボニアで抜けるような晴天の下でインタビュー。この頃からはすっかりご家族とも親しくさせて頂く間柄に。 その後は、肺炎で入院されてお見舞いに行ったり、フレイルの兆候があったのでパーソナルトレーニングを紹介したり、ご縁が深まった。アメリカズカップの頃は、口をきくのさえ恐れ多い相手だったのに、後年は厚かましくもこちらからお誘いして銀座へ飲みに行ったり、アポなしでお宅にお邪魔したり。人の縁とは、人生とはわからないものである。
直近では、ごく少数の誕生日会が企画されていたが、コロナ拡大で延期になり、延期の連絡を直接電話頂いたのが最後の会話となってしまった。
会長のスピーチでもう一つ覚えているのは、2000年1月、ルイ・ヴィトンカップセミファイナル、チームは負けが込んで、敗戦濃厚の極めてムードが悪い頃の、ある日の朝礼。「今からお前達は、ヨットを1ミリでも速く走らせる仕事だけをしろ。その仕事をしない者は、今すぐベースキャンプから去れ」。シンジケートにおけるPRの仕事に少し引け目を感じていた自分は、荷物をまとめて帰ろうとすら考えた。今ならば、PRこそがヨットを速くすることが出来ると、自信を持って言えるのに。
会長、もう一度やりたかったです。
アメリカズカップへの挑戦なんて、楽しいことばかりではない。むしろ、リザルトだけ見てしまえば3大会連続で予選敗退なのだから、むしろずっと辛く苦しい挑戦だったと言える。しかしながら、それまで誰ひとりやっていない、やろうと考えすらしなかったことを、ゼロから立ち上げ、文字通り夢をカタチに替えながら仲間と共に戦う事を教えてくれた会長。感謝の言葉は尽きないけれど、どうか先立ったお仲間達と向こうで再会して、楽しい日々が蘇っていることを切に願う。
ご冥福を心からお祈り申し上げます。