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足利義昭さんについて

私のPCの背面には、戦国大名である真田家の家紋と、今川家の家紋のシールが貼ってある。仕事に関する気力を維持するためだ。

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私の仕事は、違法なインターネット広告の調査だ。2017年の年末から始めた。半年くらいでケリをつけるつもりだったのに、もう3年が経とうとしてしまっている。まだ先が見えない。泥沼の中を進んでいるかのようだ。戦いが優勢なのか劣勢なのかも、よくわからない。

戦国武将に自分を重ねる

私は43歳のおっさんだ。私の年代の人は、戦国武将や大名に、自分の人生を重ねて思いを馳せた経験のある人は多いだろう。

私は、足利義昭のように生きたい。足利義昭のように生きる覚悟が欲しい。

足利義昭を評する言葉は辛辣だ。貧乏公方。お手紙将軍。悪御所。そんな言葉を投げつけられ、おそらく実力のない自分を理解しながら、足利義昭は、自分の人生を生きた。

真田幸村

冒頭に挙げた真田家は、カッコいい。大阪夏の陣で徳川家康を追い詰めた真田幸村を筆頭に、現代でもよく知られている。私も、本音では真田のようにカッコ良く戦いたいと思う。

真田家の家紋は、六文銭だ。六文銭は、三途の川の渡し賃だ。つまり、死を覚悟している、ということだ。

死を覚悟している。うん、カッコいい。真田は実力もあった。だからこそ現代でも人気があるのだろう。

でも、私にそんな実力はない。そして、実力はないけれど、戦いたい。

十分な実力がない状態で戦うには、負ける覚悟が必要だ。

私は真田をカッコいいと思う。しかし、私がPCに真田家の家紋を貼っているのは、真田のようにカッコ良く生きたいからではない。

実力がない人は、カッコ良さを優先して、中身のないことをすることがある。そういう状態に陥っていないか、私は自分を監視したい。

この六文銭は、私にとっては、三途の川の渡し賃ではない。圧倒的にカッコ良く、手に届かないもののシンボルだ。六文銭は私に、こう問いかけてくれる。

お前は今、カッコつけるばかりで、本当は戦っていないんじゃないか?どうせ真田のカッコ良さにはかなわないから、カッコ良さを追い求めるのはあきらめろ。

今川義元

私のPCに貼ってある今川家の家紋は、少し特殊だ。正確には、これは今川家の家紋ではない。今川家の家紋は、将軍家である足利家と同じ二つ引両だ。

私のPCに貼ってある「家紋」は、二つ引両ではなく、「赤鳥紋」だ。これは、今川義元だけが使った馬印だ。

今川義元のことは、誰もが知っているだろう。1560年6月に、桶狭間で織田信長にあっけなく討ち取られた大名だ。

私は、今川義元のように、情けなく討ち死にすることを受け入れたい。その覚悟が欲しい。その覚悟があってこそ、立ち入れる仕事というものがある。

赤鳥紋は、今川義元のシンボルだ。そして今川義元は、私にとって、情けなく負けることのシンボルだ。情けなく負けることを受け入れ、覚悟しなければ、できないことがある。だから、情けなく負けることのシンボルとして、赤鳥紋を貼っている。

しかし、今川義元も、まだ情けなさが足りない。今川義元は、カッコ良く上洛を目指し、あっけなく散ったのだ。

世間一般の評価としては、今川義元はカッコ悪い大名と言えるだろう。上洛なんていうデカいことを言ったくせに簡単に負けた人、と考える人は多いと思う。

しかし、少なくとも今川義元は、上洛を目指した。海道一の弓取り、とも呼ばれた。その点を取り上げれば、カッコ良い人だ。

負けることを覚悟する、という点では、私にとって赤鳥紋は役に立つ。しかし、まだカッコ良さが残っており、むず痒い。

足利義昭

有名な戦国大名で最もカッコ悪い人は、たぶん足利義昭だ。室町幕府最後の将軍。

私は、足利義昭のように情けなく生きる覚悟が欲しい。

足利義昭は、自ら戦って華々しく散ることもなかった。自らは戦わず、諸大名に御内書を送って信長包囲網を敷いたのち、信長に敗れた。

京から追い出され、備後国に流れ、毛利輝元を頼って生きた。鞆の浦という場所で、毛利から金銭援助を受けながら、情けなく生きた。豊臣秀吉が関白になると、今度は秀吉を頼って生きた。最後には、秀吉からもらった領地で病死した。

足利義昭は、ただひたすらに他家を頼り、負け続け、頼る先も鞍替えして、情けなく生きた。

私は、そんな生き方をしたくない。しかし、そういう生き方を受け入れる覚悟が欲しい。

命と名誉と

命と名誉と、どちらが大切だろうか。私は、たぶん名誉だと思う。

もちろん、直接的には命が大事だ。しかし、名誉が欠けると人は死ぬ。名誉が傷つけられた人が自死することは、現代でもある。名誉が奪われたら、きっと、死にたくなるのだろう。

私は、名誉が全て奪われても生きられるような覚悟が欲しい。戦って負ければ、名誉が奪われ、死に至ることもある。

特に現代では、戦って負けても直接的に命を奪われることはほとんどない。だから、現代で戦うときに感じる恐怖の本質は、おそらく、命が奪われることではない。名誉が奪われることだ。

私は、名誉が奪われても生きる、という覚悟が欲しい。弱者が戦うには、その覚悟が必要だ。

足利義昭は、この覚悟を持っていた。没落に没落を重ねても、情けなく生き続けた。

戦いに挑むために

戦いに挑むための心構えとして、二つの選択肢があるように思う。

ひとつは、勇敢に戦い抜く、という勇気。

もうひとつは、負けたときの情けない人生を受け入れる、という覚悟。

私は勇敢な人ではないから、前者は選べない。だから、後者を選ぶ。そして、私が知りうる限り、情けない生き方を受け入れる覚悟を最も持っていた人は、足利義昭だ。

私は足利義昭が好きだ。

彼の情けない人生を知ったから、弱い私でも戦うことを覚えた。情けなく負けた先にも、おそらく、その先の人生がある。その考えを持つことができた。

私はたぶん、足利義昭のような境地には至っていない。だから、足利家の家紋を、自分のPCに貼る気にはなれなかった。

私は足利義昭が持っていたであろう覚悟を持ちたい。いつか、それを持てたと感じる時が来たら、「足利二つ引」の家紋を、PCに堂々と貼る。

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kazuo dobashi
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