残酷な天使のように…
最近、遅ればせながらエヴァンゲリオンを見た。
調子に乗って主題歌を歌っていたら妻に間違いを指摘された。
冒頭からいきなり「残酷な天使のテーゼ…」と歌っていたからだ。
テーゼではない。
ようにだ。
いきなりタイトルを歌う曲があるとしたら、それはセンスがない。
少し記憶が怪しいが、後半の回で、碇シンジと綾波レイだったかのやり取りで、自分が思う自分と他人が思う自分がいるみたいな話をしていた。その話からすると、碇シンジは2人いることになる。また、3人目が加われば、碇シンジも3人になる。というような話があった。
つまり、自分が思う自分のみがいるのではなく、自分は無数にいてそれぞれが違うということか。
そこでふと学校という場所について考えた。
学校という場では、いかに自分を出すかということより、いかに相手にどう思われるかが大事な要素となっている。
つまり、クラスメイトが思う自分作りだ。
相手が思う自分が良くないと生活しにくくなる。
しかし、過度に相手が思う自分作りをすると疲れてしまう。
またそれを強いられていると(感じると)しんどくなる。
何とか自分を解放できる場所が少しでも多くあって欲しいと願う。
いや、子ども時代を過ごす学校こそ、思い切り自己を解放し、自己を作れる場であって欲しいと願う。
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