Dual Residence: サくら&りんゴ#5
都庁が遠くにそびえ、坂を下ると神田川。
水平線から朝日が昇り、窓辺で水鳥の飛来を眺めるシムコー湖畔。
そんな東京とカナダ・オンタリオの二重生活を綴ります。
東京のサくら、Innisfilのりんゴ、つたない言語で。
かつての日常 2nd May 2021
ようやくカナダ帰国のフライトを取った
しかし
飛行機搭乗前72時間以内のPCR検査
トロント到着時にPCR
空港ホテルで3泊完全隔離
その後自宅で14日隔離
再度PCR
この行程を考えただけでぞっとするではないか。
それに加えて
カナダ渡航用PCRの証明書はどこで取れるのか。
なんでも国別に受理できるPCR検査の方法が違うらしい。例えばカナダのドラッグストアーShoppersで行われているPCR検査は日本入国時に有効ではないというのだ。
ホテルはどこを選べばいいのか
完全隔離なのでカナダ政府指定の場所でなければならない。
空港からホテルまでどうやって移動するのか
三日間の隔離の間の食事はどうすればいいのか
隔離後自宅に戻るときの交通手段
14日の自宅隔離の間の買い物を誰に頼むか
隔離が開けても車がない
そして今カナダオンタリオは再びのロックダウン中である。
次から次へと不安材料があがってきて、ますます気分がダウンである。
このまま東京に居るのが安楽であることは間違いない。
東京は再びの緊急事態宣言といっても、教室は変わらず運営を続けているし、街は人の往来はあるし、お店もある程度開いている。
人は非日常と言うかもしれないが、私にとっては限りなく日常である。
六本木に出かけた。
帰る途中、日比谷線で恵比寿まで行くところをうっかり広尾で降りてしまった。それは間違えたというより、通いなれた駅を足が覚えていて、勝手に降りてしまったような感覚であった。背後でドアが閉まり仕方なく電車を見送る。
しかし思い立って私は、久しぶりの広尾を散歩することにした。
この駅から3分の所にかつてパートで働いていたプリスクールがあるのだ。そこは私がモンテソーリ教師の国際免許を取るきっかけとなった場所でもあった ↓
追憶 inCanada : 湖畔にて。生きるとは#3 変えようと思っていたら、変えられるんだな
地下鉄広尾駅から地上への階段は変わらず味気ない灰色で、タイムカードの時間を気にしながら急いだことを思い出す。最後のステップを登りきると 外苑西通りの喧騒が目の前に現れる。
そこにはかつての日常があった。
やめればいいじゃないか
カナダからのスカイプで夫が言った。
杉並で運営する教室とプリスクールの掛け持ち仕事で私は疲弊していたのだ。
アドラー心理学のカウンセラー資格を持っている夫はそれらしく
イヤなのにそれでもやるということは、そこに何らかの目的があるということだろう?
夫はbenefitという単語を使ったので、そんなものはないと私は言った。
それは大変だね、とか
可愛そうにゆっくり休みなさいとか
ゆるーい言葉を期待していたのに夫はいつでも厳しかった。
私が人に怒っていた時も夫は、何が原因で私を怒らせたかではなく、怒ることによってどんな利益が私にもたらされるのかと聞く。
自分に得となることがあるからそういう行動をとるんだよ
夫の目は常に先を見ていた。
広尾は娘のアーニャが中高校生時代を過ごした場所でもあって、交差点に立つと私の気持ちは一気に昔に遡る。光沢のある蒼色のリボンを胸に、女子学生たちが信号待ちをしていた。見覚えのある濃紺の学生かばんを重そうに持っている。アーニャと一緒に合格発表を見に来た日がついこの間のように思える。満面の笑顔が脳裏によみがえる。
10年や20年なんてアッと言う間に過ぎるのだと思う。
それもいやになっちゃうくらいのスピードで。
あの時こだわっていたあれやこれや
それらはもう些細という部類にも入らないくらい小さい
かつての苦しかった日常も
喜びの瞬間も
陽にあたって黄ばんだテープのように
乾いて脳裏から剥がれ落ちそうになっている
そしてそれらはいずれ私の体と一緒に灰となっていくのだ
何だ、そう言うことだったか
それだけのことだったか
広尾駅から祥雲寺に向かう商店街を左に折れたところで、小さなハンバーガ屋さんを見つけた。
Pulled porkとある。
何でも夫と関連付けたがる私の脳は
これだったか、と思う
私を広尾で降ろしたのは。
あれはどこだっただろう。
確かアメリカのバモントに向かう途中であった。バモントは夫の生まれ故郷で、Pulled porkサンドイッチの美味しい店があるというので立ち寄ったのだ。カナダとの国境を越えてすぐのところだったと思う。
Pulled porkとはストリング状に裂けるくらいに柔らかく煮込んだ豚肉で、そのスモーキーな風味が特徴である。スロークッカーで調理するだけではその燻した味を出すことはできない。私たちは旅先で見つけてはpulled porkサンドイッチを買った。しかし私にとって、その初めて食べたpulled porkを超すものはなかった。
日本では見かけたことがなかったので、私はその存在すら忘れかけていた。
それを広尾で見つけるとは。
レギュラーサイズをひとつ買った。
なんて小さいんだ!
ワックスペーパーを広げて出てきたものを見ると、夫はきっとそう言っただろう。
私はひとりでクスッと笑った。
杉並の自宅に戻るとPCRテストのキットが宅配便で来る。飛行機搭乗72時間前に行うテストである。オンライン診察も予約する。
オンタリオの規制は弱まらないので観念して、カナダ政府指定のホテルを予約した。三食ついているが一泊約400CADである。三泊しなければならないのでトータルで1233.96CADである。日本円で10万円近い。自費なのにキャンセルはできないとある。
しかしひとつずつ決めて行くと、なんとなく私の気分は落ち着いてくる。
分からない事は人を不安にさせる。
でもそれが具体的に見えると気持ちが安定する。
カナダに戻る準備が少しずつ整っていく。
それは東京でのかつての日常に別れを告げるときでもあった。
杉並の家の裏庭では、早くもアンジェリカが花をつけ始めていた。東京は初夏の気候である。早くカナダに戻らなければ野菜畑の拵えが遅れてしまう。
非日常が日常となった夫との生活が今もカナダに残っている気がした。