サくら&りんゴ #40 その字に色が見えますか?
共感覚
Synesthesia (共感覚)というのを持っている。
東京にあるTemple 大学で第二言語習得について学んでいた時、そう言う名前がついているとDr. Childが教えてくれた。
それはある刺激、例えば聴覚や視覚への刺激が、同時に別の感覚の刺激を誘発するものである。
簡単に言えば、音を聞いたら味がするとか、色が見えるとか。
私の場合、文字を見ると同時に色が見える。
それは幼いころからで、その色は決まっていて変わらない。
私にとってひらがなの あ は水色。
いつも同じ水色。
い は柿色である。
字が書けるようになった頃、見える色の通りにクレヨンで書いていたのを覚えている。でもその色はたいてい見えている色とは微妙に違って、ちょっと不満であった。
共感覚はそこにある字に色がついて見えるというより、色を感じると言う表現の方が合っているかもしれない。
そしてそれらの色は 24色のクレヨンではカバーできない微妙な色があって、例えば同じような橙色系でも え は柿色の い より ほんの少し鮮やかで濃いとか。
青色なら A は私の中でコバルトブルーに近い青色で P は藍色に近い。それはかつて父が使っていた万年筆のインクの色。
そんな感覚があるせいかどうかはわからないが、自然が生み出す24色クレヨンにない色に私はとてつもなく惹かれる。
たとえば朝の湖と空
しんとした蒼たち
太陽が出ると、それらはみるまに鮮やかな蒼と化していく(トップ写真)。
そして今の季節、秋色に変わり始めようとしているメープルリーフ。
木の枝の先っちょで変わりゆくりんごの紅。
裏庭ガーデンで取れたばかりのぴかぴかのトマトの赤。
そしてカメラでとらえることのできなかった
燃える日の出。
その色たちは
決まって
ずっととどめておきたい美しさで
でも彼らは
決してそのままでいようとはしない
お願いそのままでいてと
走ってデジカメを取りに行くのに
湖から出る太陽は
一瞬たりとも同じ場所にいない
押し花にいたっては
悲しくなるばかりである
さてこの共感覚、私にとって得になることも不便になることもさほどない。人の名前が思い出せない時、こんな色の名前だったと思い出すきっかけになるくらいだろうか。決まって正確には出て来ないのだけれど。
Dr.Child の話では母方を経由して遺伝するらしく、娘のアーニャに聞くと、彼女も私と同じように文字に色が見えると言う。お互いの色を比べると、これまた全然違って不思議である。
と言うことは私の母が持っているに違いないと、あるとき話のついでに聞いてみた。
当時母は
そんなん見えへん。
そうきっぱりと言った。
でも例えばさあ、あ っていう字を思い浮かべてよ。なんか色がついていたりしない?
すると母は
そーやな~赤やな
と言った。
見えてるじゃん。
そんなわけで母私娘の三世代は文字と色の共感覚を持っている。
姉にはない。息子にもない。
湖畔の気温はすとんと落ちた。
陽の光はまだ夏の名残があるけれど
朝晩の空気はもう涼しいではなく冷たい。
そして私は湖畔の家で
弁護士からの連絡を待っている。
これが最後の夏にならないようにと祈りながら。