シアトルで幼児教育を見た件
2018年11月、シアトルに飛び、
幼児教育を視察してきました。
当時、FBに投稿した内容をこちらにも記載します。
シアトル幼児教育視察の
熱冷めやらぬ機内でのメモを
手直しして書き残します。
あくまでも個人的な感想ですのでご注意下さい。
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アメリカには
保育所保育指針や幼稚園教育要領のような
国定カリキュラムがなく、保育士資格もない、
また、ほとんどの保育施設が
民間企業による運営とのこと。
こういった状況だからこそ、
ある意味誰がやっても一定の質を保てる
活動カリキュラムが必要になるし、
用意もされているのかもしれない。
日本の保育の場合、
保育者の創意工夫が随所にみられるし、
保育者自身が保育を子どもと共に作り上げること自体を
楽しんでいるように見える。
つまり、保育が生き物のように、
また、子どもとの協同的な生活として
営まれているのではないか。
もしそういう違いがあるとするならば、
では日本保育の良さとはなにか。
それによって何が育って、何が育たないのか。
中国やアメリカをみながら感じた日本の保育の良さは、
保育者の関わりにあるように思う。
中国には幼稚園指導要綱があり、
その内容は方向性や領域の捉え方に日本との共通点がある。
しかし、その保育の実態としては大きく違いを見せる。
アメリカで見た園と日本の保育で、
Learning by doing.
Process is more important than product
といった方向は同じでも、保育の実態はやはり違う。
何が違うのか。
なんだそんなことか、
と言われるかもしれないが、
現場の保育者の願いが違うのではないか。
例えばアメリカの保育者は、
多様性を受け入れるということ、
そういった中で自己表現ができるということ、
相手を尊重するということ、
そして、
人として自立していくことを願っているのではないか。
日本の保育者は、
他者との関係性を築くこと、
友達や社会と間で折り合いをつけたり、
協調したり、周りの空気を読んだり。
(もちろん他にも自己肯定感とか思考力とか
もっとたくさんあるだろうが、
現場の保育者の根底にありそうな願いとして。)
こうした願いは
国定カリキュラムに位置づけられるのとは別に、
現場の実践者の価値観として
子どもに身につけてほしいと願う姿であり、
結局、こういった現場の保育者が持つ価値観が
保育実践の中身を大きく左右するのではないか。
そして、保育者が子どもと遊び込むこと、
一緒になって保育を楽しむこともまた日本の特徴であろう。
ただ、
これによって果たしてどんないい影響があるのかを
言語化する必要がある。
でないと、
日本の保育でも、
(アメリカで見た)子どもの遊びを外側から見守る関わり方でも、
(中国で見た)子どもを直接的な表現で指導する保育でも、
どれでも同じだよね、となってしまう。
日本の保育者のように、
保育者が創意工夫して
子どもとともに保育を作り上げる強みは、
保育者が一緒に遊びこむ中でさりげなくモデルを示し、
関わることで子どもの主体性をより引き出せる
「可能性」があること、
対等な関係で子どもとともに生活を作り上げることで
保育者が子どもの拠り所となり
園での生活が安定することではないか。
とくに保育者が関わることで、
子どもの主体性がより引き出されるということは、
ちゃんと押さえなければならないし、
そうあらねばならないと思う。
そして、活動の中身については、
今回の視察先ではteaching strategyにより
活動ユニットが設けられていた。
その一定の枠組みの中で
保育者は工夫をして子どもと関わっていく。
これは活動の起点が保育者の側にあり、
子ども理解から生まれたものではないため、
子どもが主体的に生み出した活動とは
いえないかもしれない。
しかし、活動の目的そのものが、
心情・意欲・態度のような心情的育ちを目指す以上に、
知識・技能の基礎、思考力・表現力・判断力等の基礎を
より重視したものになっているといえるのではないか。
つまり、アメリカでの視察先の保育は
アウトプット的な方向性をより強く持ち、
そのためのかかわりを重視しているのではないか。
そこで今回の視察から何を生かし、
どうつなげていくべきか。
日本の良さを生かす、
さらに強める、言語化できるようにする思考力、判断力、表現力などを
育むことをもっと意識化していかなあかん
(STEAMも含めて)
具体は…。