作曲家修業の思い出(1)プロローグ
30歳のとき、遅咲きの作曲家修業をしました。
当時指摘されたことは、これからの作曲家志望者にも役立つだろうし、アイデア出しに困っているような方にも役に立つのではないだろうかと思い、作曲家ゼミなどに入る前の知識ネタにでもなればということで、ログとして残しておくことにしました。
実は当時、リアルタイムでエキサイトブログ〜mixi日記に書いていたのですが、全て消してしまったので、記憶のある限り、もう一度書き直す次第です。
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現在44歳のぼくですが、20代の頃は仕事そっちのけでバンド活動に精を出していました。そのため、会社にはすっごく迷惑をかけまくりましたし、多分同期で圧倒的な有休消化率だったと思います。いや本当に申し訳なかったと思っていますし、ビジネスマンとして相当に回り道をしてしまった、20代でぶっちゃけ苦労をしてこなかったので今になって何のトラッキングレコードもないというお恥ずかしい状況に(苦笑)
話を戻しますと、自分はキーボーディストとして、また全ての曲を書き、アレンジもほぼ自分で決めていました。バンドの路線は男性ボーカル主体で、オリジナルラブのまんまとも言われていましたが、ベースは70年代ソウル。アレンジの手本は初期はオリジナルラブやキリンジ、フリーソウル系、その後はブライアンマックナイトやTony! Toni! Toné!でした。
そんなバンドで、あらゆるメジャーレーベル、マネジメント事務所、インディーレーベルまでデモテープを出しまくっていましたが、S社をのぞいて声はかからず。S社の担当からも一度返信があった後はしばらく連絡がなく、諦めた状態のところで、某クラブ系のレーベルから返信がありました。ぼくがメジャー志向をやめようと決断する寸前の30歳の時のことでした。(なぜやめようと決断していたか、についてはこちらのインタビューをお読みください。)
レーベルオーナーから連絡があるのかと思いきや、聞いたことのない方からのレスポンス。それも、バンドに興味があるのではなく、ぼくの曲に興味があるようでした。
当時のぼくは、キーボーディストの割には異常なまでに打ち込み嫌いで、バンド編成へのこだわりは相当でしたし、バンドで売りたいと思っていましたので、あまり乗り気はしなかったのですが、とにかく会ってみることにしたのです。
(つづきます)