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米原万里さんのこと4 「米原基準」

 もう一つ、米原さんのお宅での丁稚奉公で得た学び。それは、米原さんの豪快な通訳スタイルは彼女独特のものであり、必ずしも普通の通訳者のお手本にはならない...というより、お手本にしてはならない、ということです。私はそれを「米原基準」と名付けました。

 あるシンポジウムの同時通訳中、予定の終了時刻になっても終わらないと、米原さんがいきなりマイクに向かってロシア語と日本語で「まことに申し訳ありませんが、二人の通訳者はこのあと別の仕事があり、ここで退席しなければなりません」と言って、通訳ブースから出て帰ってしまったのです。

 司会者(びっくりしながら)「退席される通訳のお二人に拍手をお願いいたします」
会場(もびっくりしながら)拍手。

 その時は「ベテランになったら、会議が続いていても、時間になったら帰っちゃっていいのか」と思いましたが、その後そんなことをする通訳者には、一度も会ったことがありません。あれは、「米原基準」だったのです。

 その後、米原さんとは、時々声をかけてもらって、ペアで通訳の仕事をしました。

 サハリンの州都ユジノサハリンスクに出張した時のこと。

 何とか初日の全体会議が終わって、2日目の朝。この日は分科会で、私たちは分かれて通訳をする予定でした。ところが、米原さんが来ていません。そちらの分科会の人たちは困った様子。

 自分の担当の分科会の通訳を終えて、米原さんが通訳する会議室に行ってみると、地元サハリン在住の、あまり日本語が得意ではない日本人の通訳さんが、汗をかきながら通訳していました。「交代しようかな?でも、出来が悪かったら余計なおせっかいになるしなぁ」と悩んでいたら、米原さんが現れたのです。

 一同安堵の表情。「いやぁ、米原さんが来てくれて本当に助かったよ。これでやっと話が通じる」 大きな拍手が沸き起こり、米原さんは何事もなかったかのように通訳を始めたのでした。

 朝寝坊して遅刻したのに、拍手で迎えられて感謝されるなんて、普通の通訳者ならありえません。次回以降は声がかからないでしょう。これもまた、米原さんが日ロ双方の参加者に通訳者として高く評価され、愛されていたからこその「米原基準」です。

 その出張には、日本を代表する銀行や商社、メーカーの幹部が参加していたのですが、帰りの飛行機の出発がかなり遅れて少々嫌な雰囲気になりました。すると、始まったんです、米原さんのダンス教室が。

 何人もの大企業の幹部たち(全員男性)が、半ば困惑しつつ、半ば照れながら嬉しそうに、米原さんの艶かしい動きを真似て、中央アジアや東欧の踊りをぎこちなく踊っていました。実はダンサーを目指していた米原さんのパワー炸裂というか、面目躍如の光景でした。あんなことできる通訳者は、後にも先にも米原さん以外にいません。

 通訳者は黒子なので、基本スピーカーの発言の訳以外に言葉を発することはありません。でも米原さんは、同時通訳中、スピーチがあまりにも速すぎると、最初はマイクに向かって、聞いてもらえないと通訳ブースを飛び出して「スピーカーを止めてください!スピーチが速すぎて通訳が追いつけません!」と会場中に響き渡る声で、叫んでいました。

 ところが、米原さんの叫びを無視して、早口で最後まで喋り続けるスピーカーがいました。休憩時間に、怒ってそのスピーカーの席まで文句を言いに行った米原さんが、ますます怒ってブースに帰ってきて「あの人、通訳されようがされまいが、どっちでもよかったって言うのよ!会議の報告集に掲載されることが発表の目的だからって。通訳者を何だと思ってるのよ!」と。

 こういう時の米原さんは、正義感に溢れていて、新米通訳者の私は心の中でいつも「そうだそうだ、よくぞ言ってくれた!」と遠慮がちに叫んでいました。

 「米原基準」は他の通訳者にとっては、決して真似るべきお手本ではなかったかもしれませんが、米原万里を米原万里たらしめているものでした。そして周囲の人たちはそれを「米原基準」として受け入れていました。それもこれも、米原万里という通訳者が、単に優秀なだけでなく、強烈な個性で周囲の誰も彼も惹きつけていたからなのでしょう。

 そしてこの「米原基準」は、後年、米原さんが作家になった時、世の中を独自の視点で見つめるための大切な道具になるのです。

(写真は井上ユリ『姉・米原万里』(紀伊国屋書店)よりお借りしました)

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