ポメラ日記63日目 もの書きが『ポケモンコンシェルジュ』を観た話
・息抜きのつもりで観た『ポケモンコンシェルジュ』
今日は、ちょっと執筆の息抜きの話。週末に友人宅で「ポケモンコンシェルジュ」を観た。Netflix(ネットフリックス)で。
僕はポケモン世代の生まれなので(ピカチュウ版の頃で、ドット絵の主人公の後ろをピカチュウがとてとてと付いてくる)、子どもの頃はわりと好きなコンテンツだった。
中学生や高校生になるにつれて自然と離れていったんだけど、大人になってからゲーム好きの友人に誘われて、ポケモン熱がちょっと再燃したところがある(早く、原稿をやれ)。
たまたま友人のところへ寄り掛かったところ、「ポケモンコンシェルジュ」が観たい、と言いはじめたので、ゲーム用のモニターに映して鑑賞することになった。なお、Netflixの費用は僕持ちである(なぜ?)
仕事や私生活でうまくいかない主人公のハルが、ポケモンたちが暮らすリゾートで「コンシェルジュ」として勤める話、なんだけど……何かがおかしい。目頭が妙に熱くなってくる。
あとで聞くと友人も同じだったみたいで、僕らは結局、2話で一旦ストップすることにした。
早い話が、僕らはポケモンの話で泣かされるとは思っていなかったのだ。もうちょっとこう、ゆるふわな感じで、ポケモンたちにひたすら癒やされ続ける、それだけのショートムービーだと思っていたのだ。
実際のところ、「ポケモンコンシェルジュ」の1~2話を見るかぎり、そう大層なことは起こらない。だからこそ不思議だった。僕らはなぜ泣きそうになっているのか。
Twitterで「ポケモンコンシェルジュ 泣く」で検索してみると、他の鑑賞した人も、「まさかポケモンで泣くとは思っていなかった」とコメントするひとも多く、どうも似たような現象が起こっているようである。
僕も、アマチュアのもの書きの端くれなので、映画を観たときに「ここで泣かされたんだな」というのは、あとで振り返れば、だいたいのポイントは掴める。
たとえば「ポメラ日記62日目」で紹介した『マイ・ニューヨーク・ダイアリー』は、作家志望の主人公ジョアンナが、出版エージェントで働く話。
出版の現実を知って諦めかかっていたところに、ジョアンナはサリンジャーの言葉を電話越しに聞く。
普段は会社の雑用ばかりをこなしているジョアンナに自分を重ね合わせて観ると、やっぱりその言葉は響いて聞こえるものだ。
ただ「ポケモンコンシェルジュ」の方は、なぜ自分が泣かされそうになっているのか、よくわからなかった。
思い出すのはコダックが頭を抱えながら、黄色い尻尾を振って茂みのなかへ隠れていく後ろ姿だけである。そして、ハルの呼び声で、茂みからのそっと頭を出すコダック。
・太宰治が映画について語った「弱者の糧」
太宰治が、映画について語った「弱者の糧」という短い文章がある。青空文庫にもなっているのでちょっと見て欲しい。
ここがよく引用されるところだけれど、もう少しちゃんと全文を読んでみよう。
太宰治は、映画館の真っ暗な部屋に入るとほっとする、と話している。不安でどうしようもないときに立ち寄って、その一隅に座って映画を観ているとき、世間を離れて楽になれるというのだ。
一方で、太宰はそれはいっときの娯楽、もうすこし踏み込んで言うと現実逃避の手段に過ぎないことを見抜いていて、それを「弱者の糧」と呼んでいるように見える。
観る人にとって都合のいい世界、そういうものを暗幕のなかで見せるのが映画という装置だと考えていたのかもしれない。そこについ呼び寄せられていく人々に違和感を感じている。そんな弱さも分かった上で太宰は書く。
太宰治本人も、心が弱ったときに映画を観て「おしるこに感謝したいときがある」と格好付けずに白状するあたりが、市井の人々に愛される由縁なのかもしれない。
最近の作家さんのインタビューで「太宰治」が好きだと公言する人が増えてきたような気もする(もちろん、ずっと昔から多かったろう)。
僕も太宰治の言うところの「侘びしい人々」なのかもしれない。日常の空虚な穴を手軽に埋めたくてネットフリックスを観ているのかもしれない。
そうだとしても、映画の作品には作り手の思いも込められているわけで、そういう見えないところで何か心を掴まれたところがあるように思う。
・喋らないポケモン達と喋る人間たち
「ポケモンコンシェルジュ」で主に話をしているのは人間たちだ。ポケモンたちは、お互いに身振り手振りで遊んだり、いたずらをしながら過ごしている(もしかしたらポケモン達同士で伝わる言葉があるのかもしれないが)。
ポケモンのリゾートへやってきたハルは、コンシェルジュとしてどう働いていいか分からず、途方に暮れている。
そんなときに、「あまり幸せそうではない」コダックが茂みに隠れているのを見つける。コダックは「いつも頭痛に悩まされていて、それがひどくなるとねんりきが使える」ポケモンなのだ。
ハルはコダックの頭痛が取れるようにリゾートの色んな場所へ連れ回す。そして人間の話が通じないはずのコダックに向かって話し掛ける。「子どもの頃は(マーブルの)チョコレートが好きだった、大人になったらきっと好きなだけ食べられるんだって」。
そしてチョコレートの色でポケモンの名前をコダックに教えていく。その話がコダックに通じているかは分からない。
でも、ハルのように親しく接してくれるひとは、コダックの周りにはいなかったのではないか。だからひとりで頭を抱えて、リゾート地を歩き回っていたのではないだろうか。
・コダックと同じように「ずつう」を抱えた現代人
そう考えると、コダックというポケモンはどこかで現代人と似た悩みを抱えている。リゾート地に来ても、ずっと頭痛が離れず、思うように楽しめない。仕事のこと、家庭のこと、生活のこと……、もうそれだけで精一杯になってしまう。
2019年~2022年のコロナ禍で、ひとと直に触れ合う機会も減り、人々は繋がりを失いがちになったという。
でも僕は、そのずっと前から孤独や周囲の人々と縁が切れるきっかけというものはあったんじゃないかと思う。コロナはその最後のダメ押しだったような気がする。
在宅ワークという働き方は僕には合っていたけれど、仕事以外は、ほとんど誰とも喋らずに過ごす日が増えた。それがもう「普通」になってしまった。
ハルはコダックに向かって一生懸命喋っているけれど、コダックは喋れない。二人とも普段から悩みや頭痛のタネを抱えていて、同じ言葉でそれを共有することもできない。
でも彼らは互いのそばにいて、じっとベンチで寄り添っている。
僕が感情移入したのはコダックの方だと思う。いつも誰かに伝えたいと思った途端に、伝える言葉は見つからなくなる。どこか沖の方へと流されてしまうのだ。
喋らなくても伝わってしまう、そんな小説が書けたらいいなと思う。
2024/02/07 19:36
kazuma
文学ブログ『もの書き暮らし』の最新記事では、『マイ・ニューヨーク・ダイアリー』の原作、『サリンジャーと過ごした日々』(ジョアンナ・ラコフ著)のブックレビューを書きました。日本とは違う、米国の出版事情も分かる作品で、晩年のサリンジャーが登場するノンフィクションです。