ポメラ日記87日目 喫茶店つれづれ記
モスバーガーで書いてみる
今日は金曜日の週末ということでモスバーガーに行ってみた。引っ越してからいつも仕事終わりに外に出かける。在宅になってから、気分転換で街をぶらぶらするようになった。単純に居場所がないから、という理由もある。とくに知り合いもほとんどいないので、喫茶店で文章を打つか、書店へ行くか、同じことを繰り返している。行く店はけっこう頻繁に変えていて、一週間のうちに同じ店に二度行くことはない。あんまり人に顔を覚えられるのがいやというのもあるし、店で仕事をしていると思われて居心地がわるくなるのも何だかなと思って。
僕はたまにハンバーガーショップで書くときがあって、喫茶店と違って入りやすいし、空いていればかなり居心地もいい。カフェみたいに誰かの話に聞き耳を立てるようなこともない。めいめいが勝手に好きなことを話していて、放っておいてもらえるのがいい。さっきまで僕の前では大学生くらいの男の子が机に突っ伏していて、フロアを小さな少年が走り回っていた。
デルモア・シュワルツの話のつづき
いまも「夢の中で責任がはじまる」の「この世界は結婚式」という短編を読んでいる。「ポメラ日記86日目」でも取り上げたように、現代日本とかなり状況が似ていて、デルモアが感じていた問題意識は、いまも続いているんじゃないかと思っている。
この話はアメリカ大恐慌の頃の話で、大学を卒業したあとも街に居場所を見つけられない若者たちの姿を描いている。居場所を作るには、職に就ければいいのだけれど、就職氷河期のような状態で、彼らは望んだ仕事には就けない。
作中では「不況が五年続くと、大半のサークルの若者たちの希望は絵の具のようにゆっくりとあせ、布のように擦り切れていった(デルモア・シュワルツ「夢の中で責任がはじまる」河出書房新社 小澤身和子訳 2024)」という表現があるように、卒業してからも学生の頃の同級生のサークルだけが居場所になっていて、中産階級になれない彼らは、結婚も既に諦めざるをえない状況に置かれている。
彼らがサークルの他に居場所を見つけられないのは、時代に巻き込まれたという理由が半分、あとの半分はモラトリアムを手放せないでいること、と切り捨てるのは簡単なのだけど、このどうしようもない状況は、ちょっと前の就職氷河期以降の世代なら身につまされる話になる。
この話の狙いはたぶんそういうところではないし、デルモアも百年後の日本の状況なんて知る由もないだろう。
いま読み進めているところでも、彼らはやっぱりのたうち回っている。もちろん小説には解決策なんて書いてない。解決策なんて書いたら小説ではなくなる。
僕にはこの短編に出てくる登場人物たちが、あまり他人事とは思えない。六畳のワンルームのアパートが、僕にとっては終の住み処だと思っている。帰っていけるサークルのような居場所を僕は知らない。
コメダの豆菓子を持って帰ってくる話
この間、コメダ珈琲へ行って、コーヒーを飲んだ。コメダへ行くと必ず豆菓子が付く。塩味が利いて、ちょっとした間食にちょうどいい。
職場の近所にコメダの店があって、会社に顔を出す前にモーニングをよくいただいている。コメダも店によって雰囲気が変わるのだけど、その店はビジネス街でかなり客層が落ち着いているためか、給仕をする店員さん以外はほとんど音がしない。
ここで僕が豆菓子をかりかり食べると、その咀嚼する音さえ何となく響いてしまう感じがする。さてどうしよう、と思ったときに持って帰ればいいのでは? と思いついた。
豆菓子ってまとめて買うまでは行かないけれど、執筆のときに手元にあると嬉しい。僕は書きものを夜にすることが多いので、アパートのなかでかりかり音を立てる。コンビニで買った安物の缶コーヒー(ゲイシャコーヒーって書いてある)と豆菓子で夜が更けていく。
書いたものがものにならなくても、こういう時間があることが、僕には必要な気がするのだ。
街中で文章を書くことについて(ノマドワーカーもとい若者の居場所ない問題)
喫茶店にPCを持ち込んで作業したり、自習したりが問題視されている。コーヒー1杯でいつまでも粘られると、店側も経営が苦しくなる。もともと人が集う場所にしたかった喫茶店の主人が、PCでカタカタとタイプする音ばかりが響く無機質なカフェになってしまったと嘆いていた。
僕は一応、在宅のライターなので日中はアパートで作業をしている。作業が終わると気分転換に出かけていくことが多い。いつまでも部屋に詰めていると、精神状態がわるくなる。1日1回外出するのは、メンタル面で理に適っている。カフェに行く途中で日を浴びる。
街中を歩いていると、昔、行ったことのあるお店に「自習やパソコンの使用はお断り」と張り紙がしてあった。何度も通ったことのある路地なので、店に入らずとも見ているが、そんな張り紙を見たのは、つい最近だった。全国的なニュースとして流れたことで対応したのだろう。
個人経営の喫茶店(純喫茶)では、とくにその傾向が強い(もともとノマドワーカーのような客層を想定してない)ので、それが喫茶店としてまっとうな対応になるのだけど、街中に段々、学べる場所がなくなっていく、とも思った。
ノマドワーカーというと、世間的にはあまりいいイメージは定着していないと思う。会社や組織に所属することができない流れ者、カフェで高価なデバイスを無意味に見せびらかしている、喫茶店でできるような仕事なんてそもそも大したものではない。
そういう意見はごもっともなのだけれど、単純に僕はちょっと一息つきながら本を読んだり、文章を書いたりする時間が欲しいだけなのだ。
大学を卒業したあとで、本を読んだり、文章を書いたりが気軽に出来る場所って、実は街中にはそんなに多くない。図書館は近所のこども達と老人の居場所になっていて、あの静かな環境でタイプしようものなら白い眼で見られる。なら、どこで書けばいい?
これって結構、文化的な側面から言って、かなりないがしろにされているのでは、と思う。まるで義務教育や大学教育を終えた後は、さして学ぶ必要などないと言われているみたいだ。
仕事に役立つ資格を取りたいなら自腹で自習室でも借りればいい、文章を書いたり読んだりなんていう、すぐに役に立たないようなもののために、公共のスペースは提供しない。
するとどういうことが起きるかというと、スターバックスのガラスの窓際にパソコンのキーを叩くノマドワーカーがべったりと張り付くことになる(もちろん半分くらいは気分でMacbookを持ち出しているだけかもしれない)。あの同じような並びを見るたびに、お洒落で自由に働いているというよりも、ただ窓際に押しつけられるほかない人々を見ている気がする。
これはカフェ側とノマドワーカー側の対立構造の問題というよりも、ただ街中で気軽に学んだり、じっくり本を読んだり、気軽にPC作業をしたりするスペースが足りていないことの裏返しなのでは? さらに踏み込むと、あえてそういう居場所を与えないような作りになっているのではないか?
若者の居場所がない、とよく言われるけれど、あれって街中に「居てもいい場所」がどこにも見つからなくって、物理的に「椅子に座って、テーブルがあって、屋根があって、落ち着ける場所」がないのかもしれない。
街中に居場所がなくなった若者たちはどこへ行くのだろう? と問うことは、ライ麦畑のホールデンがセントラルパークの池を見て、冬になったらあの家鴨たちは何処へ行くのだろう? と問うことと根が繋がっている気がする。いつか春が来るときに、彼らが戻ってこられる場所にいてくれればなと思う。そんな話が書ければよかった。
2024/11/02
kazuma
もの書き豆話:丸善&ジュンク堂の株を買ってみました。自分の好きな文学にまつわる企業が続いていって欲しい。書店を応援する意味も込めて投資しています。