ダサいくらいなんだよ
33歳にもなって、まだ全然大学生の頃のメンタリティを引きずったままでいる。
そのことを肯定も否定もしていない。あの頃正しいと思っていたことの中で、「やっぱり間違っていたな」ということもあれば、「いや、あれは正しかった」と感じるようなこともある。人間はパソコンやスマホと違って、そっくりそのままOSが変わるようなことにはなかなかならない。
かつてNHKで放送されていた「あまちゃん」という朝ドラで、主人公のアキが、友達であるユイと激しくぶつかるシーンがある。
ユイは、アキと一緒に上京してアイドルを目指す予定だったはずが、父親が倒れたことによってそれが叶わなくなる。更にその後、母親が家族を置いて失踪してしまったことでやさぐれ、攻撃的な人格になってしまう。
ユイは正月に帰郷したアキを、ふたりが地元でアイドルを目指していた頃の思い出の場所に呼び出し、アキに激情をぶつける。
アイドルとかどうでもいい、冷めた。自分は諦めたわけではない。アイドルなんてダサいからやめたのだ。お前がやっていることはダサい。
今もどこかでユイのことも背負いながらアイドルを目指すアキに向かって、ユイはそう言い放つ。
互いに感情的になりながらアキが返すセリフはこうだ。
「ダサい?そんなの知ってるよ。やる前からダサいと思ってた。ユイちゃんがアイドルになるって言い出した時から。ダサいぐらい何だよ、我慢しろよ!」
"かっこいい"か"ダサい"か、という二つの箱を今も頭の中に持っている。何か難しい判断を迫られた時、それがどっちに入るものなのか逡巡することが今もある。いかにも大人っぽい、ビジネスマンっぽい振る舞いになっていないか。反対に、いかにも学生時代の自分を引きずったような言動になっていないか、などなど。
冒頭に記した通り、別にそういう"箱"みたいな判断基準の設け方が間違っている、という風にもあまり思っていない。ただ今は、その箱に仕分けること自体が目的やゴールになっていないか、ということを考えたりもする。
「お金のことだけではなく、本当に社会のためになるような事業やサービスを作っている会社で働きたい」
「妥協して会社を選びたくない。意志を持って、やりたいことをやれる環境で働きたい」
というような学生の声をよく聞く。そして多くの場合そういう話の後には、「でも、そういう会社は少ないように思える」というような言葉が続く。
そうだよね、そうそう、わかる、といつも思う。僕もそう。本当に僕もそう思う。多分割とみんなそう思って働いていると思うよ。そういう風に返事しようかなと思うのだけど、それだと言葉足らずな気がして飲み込む。そうやって同調したって、本人たちの絶望感が薄れるわけではないからだ。
それで、いつも上手く返せない。
あまちゃんを何気なく見ていたころ、アキの言うことにびっくりした。「ダサいくらいなんだよ」。えー、アキってそういうこと言うタイプだったんだ。というか、ダサいと思いながらやっていたことだったんだ。言い方悪いけど、もっともっと視野が狭くて、バカなキャラクターなのだと思っていた。バカだから、勝ち筋が見えないアイドル活動なんかにも全力で取り組めるんだと思っていた。
かっこよく生きたいなと思う。ひとつひとつの選択肢を間違えたくないとも。自分の取った行動のひとつひとつを並べたときに、「これが俺だ」と胸を張って言える状態でいたい。
でも、アキはかっこいいとかダサいの向こう側を見ていたのだな、と思う。ダサいと思いつつ始めたアイドル活動のその先にあるものが、アキを形取っていく。多くのドラマの登場人物と同じように、頭の中でモヤモヤと考えたことではなく、動き、出会い、失敗し、やり遂げたりやり遂げられなかったりしながら、そのキャラクターが見えてくる。
やはり僕は、「これが私です」ということをあらかじめ考えさせる、いわゆる"自己分析"なるものは、あんまり正しいものとは思えない。その先に"自己PR"があることが明確になっていればなおのこと、それは自分のやってきたことが"かっこいい"か"ダサい"かを判断し、箱詰めしていくようなものだからだ。
それらが次に生むのは、あらかじめパッケージされているように見える状態の経験を欲することだ。あらかじめ、かっこいいとか役に立つとか楽しいとか判断できるような箱に入っているもの。一方でそうしてパッケージされていないものに関しては、自分たちで判断するしかない。この作品は、この経験は、この会社は、"かっこいい"か"ダサい"か?
ダサいくらいなんだよというセリフは、東京でたくさんの人たちに出会ったアキだから言えることなのだと思う。このセリフを言うアキの中には、ダサくて冴えないアイドル生活の中で見つかった大事にできるもの。ダサいことを我慢した先でしかそれらを見つけることが出来ないという実感が、少しでも早く学生にも芽生えれば良いかな、と思ったりする。