教える、育む
うわさには聞いていたが、まだ言葉も話せないうちの子どもも、勝手にiPadを使いこなしてYouTubeで動画を見るようになった。誰も教えていないのに。見たい動画をタップして選ぶだけではなく、ホーム画面をスワイプしながらYouTubeのアイコンを選ぶことまで出来るようになっていた。まだスプーンさえこぶしでしか握れない小さな手は、最新のデジタルデバイスをいじっている時だけは大人の手の動きと変わらないように見える。
少し狼狽える。いつの間に。一方でまだ首も座らないころから意気込んで買った"あいうえお積み木"の方にはほとんど興味を示していない。少しでも早く文字の形を覚えてくれれば世界が違って見えるはずだというのが親のエゴにしか過ぎないことを重々承知していても、こちらが無理やりインプットしようとするものほど子どもの脳みそには入っていかないことを痛感する。
曲がりなりにもファーストキャリアが教育機関だったこと、今も僭越ながら学生にアドバイスを送る仕事をしていることもあって、教育というものについて考えることは多い。教え、育む。何かを伝えようとする恣意性を帯びた漢字の後に、その対象が主体的にそれを享受して大きくなっていくような意味を示す語が続く。
子どもが僕が小さな頃にはなかったデバイスを、ただ見よう見まねだけで使えるようになっている様子をまざまざと見せつけられると、先に来ているはずの「教える」という言葉が、至極心もとないもののように感じられてしまう。
親になって痛感しているのは、こんなにか弱く、依存することでしか生きられない小さな生き物の保護者であっても、結局背景の一つにしかなれないのだということである。何かを与えることとコントロールしようとすることは全く別のことであると、冷静になればすぐにわかる。でも時々それを同じことのように扱ってしまっている自分がいるような気がする。
教育のことを考えれば考えるほど、自分にできることは環境を作ることだけなのだろうと感じる。少しでもその環境を整えること、居心地がよいと思ってもらうこと。そしてそれがいつの間にか、自らを育んでいること。
そう考えた時、自分がメッセージとして送るべきことがあるとすれば、"このことそのものだけ"だろうと思う。
あなたは、自分でしか自分を育むことはできない。その上で、例えばもし今学校で息苦しさを感じているのであれば、あなたに見えている風景が少しでも変わるようにしてみると良いと思う。
インターンに行ってみることでも良いだろうし、うちみたいなプラットフォームを使ってみてもらうことでも良いと思う。色んなところに軸足を置いてもいい。全く知らない誰かと話しても良いし、普段真面目な話をしないような人と真面目な話をしてみるということでも良い。とにかく、目の前にある風景が変わるようにしてみること。
その先に目印になるような一等星があることがわかれば、今目の前に広がっている地味な風景の見え方も変わることがあるだろうと思う。それが自らを育むということなのかもしれないなと思っている。