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楕円の夢

来年からとある美大で始まるキャリア授業の非常勤コマの打ち合わせで、長嶋りかこさんの「色と形のずっと手前で」の話題が先生からぽろりとこぼれたのだった。「こういうのも(進路のことを考える)学生が読むといいかなと思って」、学校の図書館にその本を配架したりしたのだとその男性教授は言った。
ああ長嶋りかこさんの。なんか誰かも面白かったと言っていたなと記憶を遡りながら、その打ち合わせが終わるまでに、Zoom画面の横のブラウザでその本を注文したのだった。

これしかないのだ答えは、という顔をしている。
そういう顔をしたグラフィックやプロダクトや空間や建築物に出会うといつも、蚊帳の外にいるような気がしてくる。

色と形のずっと手前で / 長嶋りかこ

書き出しから、この感覚はよくわかるなと思いながら読み始めて、その一つめの章をすべて声に出しながら読んだ。声に出して読むのは本に上手く集中出来なさそうなときのメソッドで、これをやるといつの間にかテキストだけに入り込むことができるのでよくやるのだが、声に出すこと自体が気持ちが良く感じたり、その読み味のまま最後まで進めたくなって、時々朗読を止めることが出来なくなることがある。ちなみにこの前に同じ状態に陥った本は、記憶にある限り、乗代雄介さんのパパイヤ・ママイヤ、大阪というエッセイ集の中の岸政彦さんの章がある。

9/16、子どもが誕生日だった。一緒に風呂に浸かりながら、「6年前のあと3時間後くらいに、お母さんのお腹から出てきたんだよ」という話をしたのだった。「裸で生まれた来る赤ちゃんは君くらいやで」「ほかの赤ちゃんはみんなおしゃれして生まれて来んねんで」と、かつてしょうもない嘘をついたのを本人は覚えていて、「僕だけ裸だったんだよね」という確認が入った。ごめん、あれ嘘や、みんな裸やし君も裸でびしょ濡れやった。そういう話をしながら、分娩台の横に突っ立っていた時の記憶を呼び起こしていた。
自分は男性で、長嶋りかこさんのこの本について、どれくらい理解や共感をして良いのかがわからないのだけど、やはり自分も自分の人生に子どもがもたらした少なからぬ影響や重みのことを重ねながら読むことになった。

仕事として、クリエイターやデザイナーを目指す学生と進路に関する面談をほぼ日常的にしている。時々仲間内で話題に上がるのが、女性と男性のバランスである。この仕事で出会う学生は圧倒的に女性が多い。
書くだけで何か一石を投じた気分になるようで憚られるのだが、一方デザインの業界はまだ圧倒的な男性社会だ。学校の先生にもまだ男性が多いし、企業の中で発言力やポジションを持つ人も男性が多い。
少しずつその構造が変わりつつあるという肌感覚もある。漸次前に進んでいるような気もする。でもやはり何か根本的なところで、全員が勘違いや間違いを訂正出来ていないままなのではないか、という気持ちもあったりする。何かが間違っていない限りは、学生も自分もこんなにしんどくないんじゃないか、という気がする。

そういう場所に学生を巻き込む仕事をしているのだなと思う。たまに、ごめんなさい、と思うこともある。その苦労は生きていくために多少はせねばならないものだから、と、無責任な言い訳を横に並べながら。なんかまだ上手いこと理想系の世界には出来てへんねん、でもみんなでやらんと多分上手くいかへんからサ、その気持ち悪さや違和感を持ったままこっちに来てや、というようなことを思いながら。
上の子どもは男の子、下の子どもは双子の女の子、彼らにも同じような気持ちがある。ごめんなさい、なんかこんなところに呼び出して。なんでこんな変なことになってんねん、と思うやんな。俺もそう思う。
そう思いながら、やっている。


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