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記録者として、伝達者として

編集者が最も大切にするべきことは何か。

『君たちはどう生きるか』の著者、吉野源三郎は魯迅の詩の、あるフレーズを紐解きながら述べている。少し長くなるが、引用する。

「編集という仕事については、中国の作家魯迅の詩の『眉を横たえて冷やかに対す千人の眼、首を俯して甘んじて孺子の牛となる』という句を、いいことばだなと思い出すことがたびたびです。

『千人、万人の人からなんと見られようが、そんなことには、冷然として心を動かさない。子どものためには、甘んじて首をたれ、それを背に乗せて黙々としてゆく』という意味で、この孺子(子ども)とは中国の民衆をさしているのだというのが毛沢東の解釈だそうです。

たしかに民衆のためになることなら、牛のように首をたれて黙々とそれに仕え、人からなんと見られようが心にかけない、という心構えは、編集という仕事を――本当に意味のあるものとしての編集の仕事を――やってゆく上に、何よりも必要な心構えだと思います。

自分というものを世間に認めさせたいと考えたり、著者やその他まわりの人々によく思われようとしたり、あるいは世間に媚びたりしたら、本当の仕事はできませんね。

世の中に送り出した本や雑誌が、実際に社会に役立つこと、どんなに回り道を通ってではあっても、無名の民衆の仕合せに役立つこと、それだけ果たせればよいのだという心持を、しっかりと持ちつづけることです。それをどんなに堅く持ちつづけたって、思うほど役に立つ仕事ができるか、どうか、危ういのです」(「編集者の仕事――私の歩んだ道」(原題「出版の仕事がしたい――編集者」1969年)、吉野源三郎『職業としての編集者』岩波新書、1989年

「無名の民衆の仕合せに役立つ」など、大上段に構えていると感じるところはある。
だが、その主張には同意する。
編集者だけではない。ライターにもあてはまると思う。

***

私はかつて、著書の中でこう書いた。

「ライターとは、一種の『表現者』といっていいだろう。だが、それ以上に、私は自身を『記録者』あるいは『伝達者』だと思っている。

会いたい人に会って、話を聞く。相手の魅力をさらに感じる。自分以外の人にも知ってほしいと書き伝える。

それが、私の仕事であり、役割だと考えてきた。願わくは自分の書いた文が、人の役に立てばと思ってきた。読者とともに、取材をさせてもらった人たちへの、ささやかながらエールになれば、と」(『ひとりから始める――「市民起業家」という生き方』、同友館、2017年

ここに書いたことは、今も変わらない。

限られた時間と環境の中で、自分のやりたいことを少しでもやり続けたい。書いて伝えたいと思うことを、少しでも形にしていきたい。

誕生日を迎えた日に、改めてそう思う。

*写真は、この夏に行った奥多摩の光景。尊敬する人が贈ってくれたメッセージ「遠くを見て歩め」も、いつも刻みたいと思う。

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