「問題」と一緒に生きるか「仮想問題」と一緒に生きるか
生きていると、あるいは仕事をしていると、「ここが問題だ」と気づくことがあると思います。例えば何か実現したいことがある時、あるいは現状に何らかの変化をもたらしたい時は、そのプロセスの中で、大なり小なり「問題」があることに気が付く瞬間があります。
それが常識的になりすぎていて、「問題である」ということに誰も気が付いていないパターンと、あるいは、みんな気が付いてはいるけれど、見ないふりをしているとか、「その問題は決して解決されないもの」として放置されている(問題があることが前提となってしまっている)パターンがあるのかもしれません。
もし実現したい何かがその先(その問題を解決した先)にしかないことがわかっている場合や、どうしても現状に変化をもたらしたいと思っている場合は、その問題に対して向かっていくか、あるいは上記した2つ(何かを実現することや変化をもたらすこと)を諦めるかの、二択を迫られることになります。
最近の自分を振り返ってみると、やっぱりしょぼいんですけど、いわゆる「若さ」故の良さみたいなものが消えていくことに対する危機感と、逆にいえば「若さ」故の脆さみたいなものがなくなっていくことに対する成熟感を、同時に感じています。みんなが通る道なのかもしれません。
そのうえで「若さ故の良さ」とは一体なんなのかを解剖してみると、少なくとも10年前もしくは5年前の自分にはあって今は失いつつあること(かつ失いたくないこと)がわかりました。
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「問題」に気がついた時の違いです。
もっと若い時も、今も、私は比較的何かを実現したいと思って生きているし、仕事をしているし、あるいは常に現状に変化を求めている人種だと思います。そこは私の性格を考えるときっとこれから歳を重ねても同じです。そうすると、先述しているように、ある地点で「問題」に気が付くことになります。
その「問題」に気が付いたとき、「解決しようとする(してみる)」までは同じでも、どうやってその「問題」と対峙してやろうか、というスタンスの部分が、変わっていって"しまっている"と思います。
若い時の自分は、多分こういうプロセスです。
でも今はこうなりつつある。
仮に自分に、キーになる「問題」に気が付けるセンスや、観察力みたいなものがあったとして、「ここがボトルネックだな」とか、「ここの問題さえクリアしてしまえばうまくいくな」みたいなものが見えた時、動いてみるか、考えてみるか、そこがだんだん変わってきてしまっているように思います。
動いてる場合(もっと若い時の自分)、次に新しい問題が必ず出てきますが、それに対してまた動くことで、失敗する可能性を大いに秘めた状態で、現状がマイナスかプラスに変わっていくことになります。
一方、考えている場合、次に新しい問題を”想像”できるようになっていきます。それに対してまた、考えてみます。リスクが減っていく代わりに、その問題に対する「どうしたらいいのか考えてみる期間」が長くなり、何にも解決しないまま、問題を想像することに満足して終わってしまいます。
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思えば、この「問題」というものは、誰も解決したことのない「問題」がほとんどです。あるいは誰も解決できなかった「問題」だからそこにまだ「問題」として健在しています。
それなのに、まだ存在しない方法に想いを巡らせたり、長い時間考えてみたり、あるいは誰かに答えを求めたりしても、繰り返し想像上に「仮想問題」が出てくるだけで、ほとんど意味がないのだと、言いたい(自分に)。
この若い時に持っていた「これで解決できるかわかんねーけどやってみっか」精神と、次々と出てくる「問題」に動き続ける体力を取り戻さないと、ちょっと利口なおっさんに成り下がっていくなと、そう思いました。何も変えられずに終わっていく。何も実現できずに終わっていく。
これは何も、仕事や学業に限らず、「生活」に関しても同じことが言えるんだ〜と、思います、最近。
なぜ動かずに考えてしまうのかというのは、やっぱりちょっと賢くなっていってしまうことや、立場や責任ができてくること、失敗するのが面倒になってくること、止めてくる人が周りにたくさんできてくること、色々あると思いますが、それこそがつまり「若さ故の良さ」がなくなっていくことなのだと、説明できるのではないでしょうか。
以上、最近自分しょぼいなと思っている人の、自分への戒めでした。
動け。やってみろ。
誰も解決したことのない問題なんだから。
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参考文書:ジャケ買いしたビジネス書
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