「年齢」について
「時間の経過」ということの(真の)意味を知るには、やはり、時間の経過を体験しなければならない。時間の経過とともに、あるものは廃れ、あるものは繁栄し、またあるものは蕾から芽が出る。「時間は全員平等に与えられた唯一のものである」とは決まり文句のように言われているけれど、その平等に与えられた時間というものは、人間における「年齢」という数字に昇華され、自らの「時間の経過」を体験した証明としてついてまわる。特に日本社会にとって、年齢(時間の経過)というものは、それが善か悪かは別として、かなり大きな意味を持っている。
Photo: ドイツ遠征にて(14歳)
1つ。僕はずっと20代の人生のことしか考えてこなかった。2つ。25歳から年齢を全く気にしない人々の国アルゼンチンに住んでいた。だから、最近になってやっと、30歳を越えてからの人生について考えるようになった。すると、29歳という現在の年齢(時間の経過)と向き合うことも多くなって、必然的に30歳からの人生に、(意外にも)すごくワクワクしている自分がいる。きっと「時間の経過」の意味がわかってきて、仮に自分が60歳まで生きられるとしたら、これから今までと同じ時間の経過を(比べ物にならない密度で)体験できるんだ、という事実が、尋常ではないほどの魅力を放っているのである。10代の終わりに感じていた未来への冷酷な態度とは、正反対だ。
職業と年齢
私の職業にとって、年齢とはまた厄介なものでもある。「サッカー監督」という職業は「時間の経過」とともに即ち洗練されていくことは間違いなく、世の中の多くの優秀なサッカー監督は、ごく少数の例外をのぞいて、決まって長い時間の経過を体験している。「サッカー監督としての時間の経過」以上に「人間としての時間の経過」が意味をもつ職業なのかもしれない。私は
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