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「過去」への誇りと、「私」であることの誇り。

外国に旅に行ったり、住んだりすると、もちろん日本人である僕とは根本的な考え方の違いがあったりする。それを見つけ、そこから何かを学んでいく作業は、僕にとって異常な楽しさだった。そのうちのひとつに、アルゼンチン人がもっている「過去に誇りをもつ」という態度がある。僕にはこの感覚あまりなかったな…と思ったし、日本人とは少し違うような気がしている。

今日は「過去に溺れる(自惚れる)こと」「過去に誇りをもつこと」との違いについて、考えてみる。すごく大切なことだと思っている。


過去を誇るアルゼンチン人

こんなことを書こうと思ったのは、上の2つの記事を読んだから。ガルシア千鶴さん(僕も本当にお世話になっている)が書いた、「なぜアルゼンチン人監督はこんなにも優秀なのか」がテーマの記事。僕も全く同じ質問の答えを自分の目で確かめたかったから、アルゼンチンに住むことを決めた。だから基本的にアルゼンチン人の特徴を観察したり、文化を学んだり、考え方を学んだりするときは、いつも「サッカー」や「サッカー監督」や「リーダー」に置き換えていた。というよりなんだろう、それらを通してアルゼンチンという国を見ていた、というべきか。

自分がアルゼンチンで見た全てのことは、いまの、そしてこれからの自分の人生そのものである「サッカー監督」という仕事に、置き換えられている。

彼らは、過去を誇る。日本人としては、例えば「過去の栄光に溺れる」という言葉がある通り、過去に自分が経験したことや、成功や、失敗や、栄光、勝利でもなんでも、できる限り言及しないようにしているような気がしている。僕は多分、そういう人間だった。溺れないために。

でも彼らは、例えばサッカークラブのサポーターも、絶対に過去の栄光を忘れず、物理的に残し、こちらがひくほど誇りを持っている。「俺たちはこのタイトルを取った」と、誇らしい。最初は、日本人的な考え方の僕は、それこそ「過去の栄光に溺れている」ように見えたわけだけど、実際は全然違ったのだ。

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過去の誇りを、未来の誇りを掴むための、力にしている。このエネルギーが、尋常じゃない。誰も、満足しない。誇りを渇望する。己が歩んできた道に誇りを持つために、そのために、歩み続ける。僕はその姿が、美しいなと思った。


確かめながら


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