【総論】 なぜ私たちは闘う必要があるのか?:Competition and Struggle Theory(競争闘争理論)
——— ある何らかの事柄を分析する際、私はよく、その事柄自体を抽象化し、他の類似する事柄と対比させることで、それによって生まれる相違や類似、または一致を元に思考を重ねていきます。私にとってそのような思考法は、これまでの人生において無意識的に行なっていたものでしたが(それに気付くのにも随分と時間がかかりました)、こと「サッカー」という、人生における最も重要な事柄においては、ある種、意識的に行う必要があるのではないかと、そのように思っております。
まして、私は「サッカー」という事柄を生業にし、さらには、他人を通して表現行為を行なおうとしている身です。私の頭の中にある思考の根拠や、回路、概念を、自らの言葉で説明することが出来ないのであれば、それは全くもって意味のないものになってしまいます。その点で、自らの思考を「書く」という行為は、自我の認識、思考の整理、また新たな学びを得るのに役立ちます。
しかし、これまでこの『芸術としてのサッカー論』で書いてきた全てのものは、決してメインのものではございませんでした。いわば「各論」のようなものでしょうか。当時まだまだ興味を持ってくれる人(批判や意見をくれる人)が足りなかったことが、「総論」よりも「各論」を先に書いた理由です。少しでも「書く」という行為を有効に働かせるためには、そのような批評が必要であり、それを確保するためには、人様が興味のあるような、ビジネスや、その他のスポーツに通ずる話題を選ぶことの方が重要だったからです。
さて、いよいよメインのテーマに入っていきたいと思います。私のサッカーに関する思考の「ほぼ全て」をここに記すつもりです。そして今回の記事で書くのは、これから先長い時間をかけて書いていくことの、元になっているセオリーです。「サッカーとは何か?」を深く思考していく際に、まずサッカーをその他の類似するものと「対比」させ、それによって表出したものをもとに「サッカー」を考えています。「サッカーとは何か?」という最も重要な解釈を、欧米人の捉え方や、南米人の捉え方にそのまま委ねる行為は、彼らを「超える」という点で非常にナンセンスであると私は考えているため、1から(0からではないですよ)サッカーを捉え直す作業から入りました。
■なぜサッカー選手は「闘う」べきなのか
本題に入る前に、なぜ私がこのように「サッカーを自分で捉え直す」作業が必要だと思ったのかを、まず書いていきます。
8歳頃からサッカーを始めた私は、18歳まで選手としてサッカーをプレーしていました。サッカーを辞めて間も無く、それまで全くと言っていいほど興味がなかった「外からサッカーを観る」という行為を無意識にし始め、20歳前後の頃には「監督がしたい」と考え始めていました。それからすぐ、指導者としての歩みを始めました。
ただそういった中で、選手時代も、指導者になってからも、チームメイト、もしくは自分が指揮をする選手たちに対して「説明が出来ない」ことが一つありました。
なぜ、私たちは、闘わなければならないのか?
日本には、「精神論」という言葉に敏感に反応する人たちがいます。それを毛嫌いする人も中にはいるでしょう。かくゆう私は、もしも「精神論」と言われるものが、「あらゆる角度から検証して(例えば科学的に)効果のないものとして証明されている」にも関わらず、狭い視野、もしくは古びた見解、またはその行為のことを言うのであれば、私はその「精神論」には嫌悪感を覚えます。例えばサッカーというゲームにおいて、「ゲーム中に走れるようになるため」という「曖昧な目的」を達成するために、「数十分間同じペースで走り続ける」トレーニングはどうでしょう。さらにそのトレーニングで「お前は気持ちがないから練習でも試合でも走れないんだ」と言われれば、私はそれを「精神論」と呼び、全く意味のないものとして捉えます。また「自信をつけるため(精神的に強くなるため)にたくさん走るんだ」という発想に関しても、「じゃあ自分たちよりも走っている相手と試合をするとしたら、その自信と精神力は、一瞬でどこかへ行ってしまうのでは?」と思わずにはいられません。例えば、これらのようなものを私は「精神論」と呼び、嫌います。
■気持ちがないから勝てない?
一方で、例えば試合に負けたとき、もしくはうまくいかない時、「気持ちがないから勝てないんだ」「闘えないから負けたんだ」という類の発言(見解)に対して、「精神論かよ…」と嘆き、聞く耳を持たない人がいます。私はこれを「精神論」と呼ぶのであれば、否定したいと思います。なぜなら、それらが原因で勝てないことは、サッカーというゲームにおいてはままあると考えているからです(少なくとも私はそういう試合を山ほど見てきたつもりです)。人間が行なっている行為ですから。
ただ、選手の時も、指導者の時も、どうしてもうまく説明が出来ない。「なぜ闘わないと勝てないのか」そして「なぜあなた達は今闘っていないと言えるのか」が、うまく説明できないのです。それが原因でチームメイト、または選手とぶつかったこともあれば、本来は「闘う姿勢が見えない」から勝てないのだと確かに思っているのに、「相手のシステムがどうだ」「君のポジショニングがどうだ」「4-4-2に変更しなかったからどうだ」と、ただ「現象として表出したもの」を「敗因(原因)」として無理やり落とし込み、自分を、またはその他を納得させたこともありました。じゃあ「闘う」って何?というのは、そんなに簡単な問題ではないので、これから時間をかけて書いていくことにします。
■サッカーはなぜ難しいのか
難しいのは、例えば「気持ち(ここでいう気持ちとは極限まで簡単にわかりやすくしたものです)」を敗因とすることを「ちっ、くだらない」と捉える人がいれば、逆に「現象として表出したもの(主にマグネット上で説明できるもの)」を敗因とすることを「ちっ、くだらない」と捉える人、両方がチーム内または世の中に存在していることです。どちらかしか信じることが出来ない人もいるわけです。私はどちらかと言えば、前者が原因であるのにも関わらず、後者に関して(マグネット上で)語り出す解説者や監督や選手に対して、「ちっ、くだらない」と思ってしまうことが多いですが、実際は、その両方が必要であることは火を見るよりも明らかです。それを含めて「ゲームを正しく解釈する力」が、監督や選手には必要だと言えます。
では、ここで行わなければならないことは何か。それは、「なにがどのように大事なのか?」という「解釈」を「一致」させることです。どういうことか、ティラミスを使って説明します。
ティラミスをティラミスにしているのは、表層に掛かっている「パウダー」です。このパウダーがない状態のケーキを見て「これはティラミスだ」と解釈する人は、恐らくどこにもいないでしょう。サッカーにとって「マグネットで説明できるもの」の全ては、このパウダーだと私は思っています。今日本サッカーに「足りない」と言われているような、戦略戦術論に関する知識や、最新のトレーニング理論、テクノロジー スポーツサイエンス etc...これらは全て「パウダー」です。
■パウダーがなければティラミスにはなれない
確かに「パウダー」がなければ「ティラミス」になることは出来ませんので、言わずもがなパウダーはすごく重要です(実際パウダーを全く持ち合わせていない指導者がいるのもまた事実…)。しかし、仮に「それ以外の部分」が全くない、または中身がスカスカだったらどうなるのか。パウダーを「全くもって無意味なもの」にしてしまいます。お皿にパウダーだけがかかっていても誰も手をつけませんし、せっかくの高級パウダーをただの飾り付けにしてしまいます。
これから私が書いていくことは、ティラミスの「パウダー以外の部分」です。この部分をしっかり言葉にし、理解を深めれば、私は日本がサッカーというスポーツで世界一になることは可能だと思っています。何の疑いもなく。
「日本サッカーが世界で勝てない理由はパウダー以外の部分にある」
私がまず主張したいことです。世界に勝つためには「パウダー以外の部分」をしっかり思考し、日本語で説明する必要があります。パウダーをしっかりと意味のあるものにし、ティラミスをティラミスにする為には、土台の部分が必要です。「気持ちが足りない」とか「闘え」とか、そういった類の言葉を使わないようにするためではなく、むしろ、それらのある種曖昧な表現を「全員が納得して」使えるようにするためです。
■表面に見えるのはパウダー
日本サッカーは、このケーキの土台がない中で、やれパウダーが足りないとか、やれパウダーの掛け方が悪いとか、そのことばかりに意識を奪われ、土台を自分たちで築き上げることを怠ってきたのではないか?と、私は思うのです。表面を見ると、見えているのはパウダーだけなのですから。表出してくるのは、いつだって原因ではなく現象です。パウダーは、かければ終わり。でもそれ以外の土台は、より丁寧に、時間をかけて作る必要があります。
これから書いていくのは、これらの経緯の元、非正規的な思考態度(例えば西洋で言われていることをそのまま受け入れるようなことはしていません)で、私なりに時間をかけて理論化したものです。今後サッカーにおける主張の全ては、この考え方が基盤になっています。
前置きが長くなりましたが、いよいよ本題に入ります。
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Competition and Struggle Theory
(競争闘争理論)
まず第一に、私たちの国は「スポーツ大国」だろうか。スポーツが盛んな、または優秀なスポーツ選手が多い国だろうか。日本が世界でトップ5に入るスポーツ、もしくはそれに限りなく近い、世界のトップを争えるような位置にいるスポーツは、どれくらいあるだろうか。
柔道 / スキー競技全般 / 競泳全般 / 野球 / フィギュアスケート/ マラソン / 卓球 / 体操 / レスリング / バレーボール / バドミントン / ソフトボール / シンクロナイズドスイミング etc...
今(私が)イメージ出来るだけでもこれだけある。この他にも、個人として世界のトップに日本人がいる競技や、マイナースポーツの中にも度々世界一を獲る日本人選手は少なくない。かつて世界のトップにいたが、何らかの形で昨今の成績が振るわない競技もあるだろう。ただ日本はこれまで、あらゆるスポーツにおいて優秀な成績を残していることは、まず間違いなさそうである。このことを、まず頭に入れておいてほしい。
■スポーツ競技を分類する
まず私は、サッカーそのものを考える前に、その他のあらゆるスポーツを分類することによって、サッカーの正体を把握しようと試みた。その分類方法を、ここでは『Competition and Struggle Theory(競争闘争理論)』(以下CST)と呼ぶ。
私は、基本的に存在する全てのスポーツ競技を単純化すると、大きく分けて「2つ」しかないと考えている。
Competition(競争)
Struggle(闘争)
そして、この「2つ」の分類をさらに「個人(Individual)」と「団体(Team)」によって「4つ」の種類に分ける。個人で行う行為と、2人以上で行う行為には、明らかな違いがあることは確かだ。
Individual Competition(個人競争)
Team Competition(団体競争)
Individual Struggle(個人闘争)
Team Struggle(団体闘争)
「CST」で分類をすると、まずこの「4つ」が浮かび上がってくる。そして、ここからさらに「闘争(Struggle)」を2種類に分類する。
新しく「闘争(Struggle)」から分岐したのは、以下の2つ。
Indirect Individual Struggle(間接的個人闘争)
Indirect Team Struggle(間接的団体闘争)
これら全ての分類に色をつけて図にすると、以下のようになる。大きく分けて青色の左半分が「競争(Competition)」、赤色の右半分が「闘争(Struggle)」だ。
私がこれから書く内容は、全てのこのセオリーに沿って思考したものである。同じ「スポーツ競技」でも、種類が異なるのであれば性質が異なり、それぞれ「全く違うもの」が求められるのではないか?と、この時点である程度予測することが出来る。
では次に、最終的に分類された「6種類」のスポーツ競技における、それぞれの簡単な定義を見ていく。
■個人競争(IC)/団体競争(TC)
個人競争(IC):「異なる時間」または「異なる空間」において、各個人が、その優劣を競い合うスポーツ競技である。そのため、競い合う各個人は、相手競技者に対して妨害を加えることが出来ない、または許されていない。(例)100m走・体操・ ゴルフ etc...
団体競争(TC):「異なる時間」または「異なる空間」において、各団体が、その優劣を競い合うスポーツ競技である。そのため、競い合う各団体は、相手競技者に対して妨害を加えることが出来ない、または許されていない。※ 主にこの分類に属するスポーツ競技は、それが個人として行なわれた場合、そのまま「個人競争(IC)」として成立する。(例)競泳リレー・新体操団体・陸上リレー etc...
■個人闘争(IS)/団体闘争(TS)
個人闘争(IS):「同じ時間」または「同じ空間」において、各個人が、その優劣を競い合うスポーツ競技である。そのため、競い合う各個人は、相手競技者に対して何らかの妨害を加えることが出来る、または許されている。(例)ボクシング・レスリング・柔道 etc...
団体闘争(TS):「同じ時間」または「同じ空間」において、各団体が、その優劣を競い合うスポーツ競技である。そのため、競い合う各団体は、相手競技者に対して何らかの妨害を加えることが出来る、または許されている。※ 主にこの分類に属するスポーツ競技は、それが個人として行われることはない。(例)サッカー・バスケットボール・ハンドボール etc...
■間接的個人闘争(IIS)/間接的団体闘争(ITS)
間接的個人闘争(IIS):「同じ時間」または「同じ空間」において、各個人が、その優劣を競い合うスポーツ競技である。そのため、競い合う各個人は、相手競技者に対して何らかの妨害を加えることが出来る、または許されている。しかし、各個人間には一定の「距離」が設けられているため、競技者は何らかの「道具を介して」(間接的に)それを行う。(例)テニス・バドミントン・卓球 etc...
間接的団体闘争(ITS):「同じ時間」または「同じ空間」において、各団体が、その優劣を競い合うスポーツ競技である。そのため、競い合う各団体は、相手競技者に対して何らかの妨害を加えることが出来る、または許されている。しかし、各団体間には一定の「距離」が設けられているため、競技者は何らかの「道具を介して」(間接的に)それを行う。(例)野球・バレーボール・卓球ダブルス etc...
以上が、「CST」によって分類された「6つ」のスポーツ競技の定義である。
■日本人が唯一勝てない分類
さて、冒頭で書いたように、日本人はこれまで多くのスポーツ競技において、世界のトップトップで戦いを繰り広げてきた。世界1、2位を争うスポーツも少なくない。ただ、上記の分類を見てみると、唯一日本人がこれまでトップトップを見ることが出来ていない分類がある。それが『団体闘争(Team Struggle)』である。
ここに分類されるスポーツ競技だけは、日本人は、なぜか勝てていない。他の競技をもう一度確認してほしい。それぞれの分類には、必ず日本が世界のトップトップを争っている、もしくは争ってきた競技が必ず存在している。
日本人は、非常に勤勉であり、研究熱心であり、器用であり、経済的にも豊かで、さらにスポーツが盛んであることは確かだ。それなのに、なぜ、唯一「団体闘争(TS)」だけは、世界の壁を越えることが出来ないのか?それがフィジカル的な問題ではないことは、既に他の競技が証明している(今や400m走リレーで日本が世界2位をとる時代だ)。
冒頭で私があげた以下の競技(大体の人が日本が強いスポーツで上げる名前だろう)には、当然「団体闘争(TS)」の名前は一つもない。
柔道 / スキー競技全般 / 競泳全般 / 野球 / フィギュアスケート/ マラソン / 卓球 / 体操 / レスリング / バレーボール / バドミントン / ソフトボール / シンクロナイズドスイミング etc...
より近代的なスポーツである「スケートボード」や「BMX」などの競技においても、日本人は世界のトップを争う位置にいる。
それなのに、サッカーもバスケットボールもラグビーも水球もホッケーも、全ての「団体闘争(TS)」において、“よいところまでは行ったとしても”、世界トップクラスの壁を打ち破ることが出来ないのは、何故なのだろうか。
■オリンピック成績
例えば前回の夏季オリンピック(2016年リオ)において、日本は過去最高「41個」のメダルを獲得した。以下にメダル獲得競技一覧、および「CST」による競技分類を記した。
レスリング:7(IS)
柔道:12(IS)
競泳:7(IC・TC)
体操:3(IC・ TC)
バドミントン:2(IIS・ITS)
陸上競技:2(IC・TC)
卓球:3(IIS・ITS)
シンクロナイズドスイミング:2(TC)
ウェイトリフティング:1(IC)
カヌースラローム:1(IC)
テニス:1(IIS)
見てもらえればわかるように、メダルを獲得したのは「団体闘争(TS)」以外の全ての競技分類である。また、同大会における「団体闘争(TS)」の成績一覧が以下の通り。
サッカー男子:予選敗退
サッカー女子:出場なし
ハンドボール男女:出場なし
ホッケー男子:出場なし
ホッケー女子:予選敗退
水球男子:予選敗退
水球女子:出場なし
ラグビー男子:4位
ラグビー女子:10位
バスケットボール男子:出場なし
バスケットボール女子:準々決勝敗退
さらに、過去の夏季オリンピックの成績を見てみると、少なくとも1956年メルボルン大会〜2016年リオデジャネイロ大会までの間に「団体闘争(TS)」の競技分類で獲得したメダルは、2012年ロンドン大会で女子サッカー代表が獲得した銀メダル、1968年メキシコシティ大会で男子サッカー代表が獲得した銅メダル、この2つのみである。
もちろん「団体闘争(TS)」の競技自体メダル獲得のチャンスが少ないとか、遅れて日本に入ってきたスポーツだとか、日本発祥のスポーツは個人競技が多いとか、そのような曖昧な逃げ道はあれど、この競技分類のみ、なかなか成果を出せていないのは事実であると言える。
※男子ラグビーが結果を出しつつあること、そして女子サッカーが世界の壁を破ってきたことに関しての考察は、今後どこかで触れていきたいが、そこには例外的な要因があると考えている。
■なぜ「団体闘争」では勝てないのか?
団体闘争(TS):「同じ時間」または「同じ空間」において、各団体が、その優劣を競い合うスポーツ競技である。そのため、競い合う各団体は、相手競技者に対して、何らかの妨害を加えることが出来る、または許されている。※ 主にこの分類に属するスポーツ競技は、それが個人として競技が行われることはない。(例)サッカー・バスケットボール・ハンドボール etc...
なぜ日本人は同分類「のみ」、世界のトップトップを争うことが出来ていないのかを考える必要がある。それも「なんとなく」ではなく。
何よりも先に言えることは、「CST」によって分けられたそれぞれのスポーツ競技分類は、その特徴によって、あらゆる前提が異なってくるということである。同じスポーツであって、同じスポーツではないのだ。選手が求められる能力、指導者が求められる能力、行うべきトレーニング、それぞれに必要なチームワーク、思考回路、エンターテイメント性やビジネス的視点に至るまで、全てが異なると私は考えている。
次回以降の記事では、それぞれの特徴を深掘りしながら、「では、サッカーには何が必要になるのか?」という視点で、サッカーの正体を把握していきたい。それを知っているか知らないかだけでも、大きな差が生まれることであろう。
■重要なのは「事実」ではなく「解釈」
これから先、私は、いかに日本人の文化的特徴、歴史的背景、社会環境、または学校教育などが(現時点で)「団体闘争(TS)」に反しているか、という点に関して頻繁に触れることになるかもしれない。しかし、それは日本人を批判することが目的ではないことはもとより、どちらが「良い・悪い」という類の話をするつもりも一切ない。であるから、ただ私の仮説を長々と語るのではなく、一体「どのような思考回路が必要か」また「どのような訓練が必要か」という地点まで掘り下げていき、時にはその具体例を出しながら、サッカーを深く思考していきたい。
目的はあくまで「世界に勝つ」ことである。そこに、異常なまでに執着したい。少なくとも私は、サッカーをする時だけは、決して日本人としての心地よさを保ちたいのではなく、世界に勝ちにいきたいのだ。
また私は、科学的な根拠を含め、「正しいこと」を書き、それを証明して見せようという気も一切持ち合わせていない。特に、文化的特徴、歴史的背景、社会環境、学校教育等に関連する事柄に関しては、非常に扱いにくい分野であることも承知している。私はそれらの専門家ではない。ただ、サッカーにおいて重要なのは「事実」ではなく「解釈」であり、また「解釈」をチーム内(組織内)で「統一」することである。「ボールが真ん中にある」という事実そのものよりも、「ボールが真ん中にある」ことを「どう解釈するのか」が重要である。その「ズレ」がサッカーにおいて問題となるのだ。このことについても、今後詳しく触れていきたいと思う。
つまり、もし何かを「間違って」解釈していたとしても、それがピッチ上に現れる表現に何かしら有効な働きをもたらすのであれば、それで目的は達成しているのだ。『芸術としてのサッカー論』では、「私はこのように解釈し、それをこのようにサッカーで表現する」ということを書き連ねていく、ただそれだけのことである。
どれだけのことをしても、サッカーは「ピッチで表現されるもの」が全てだ。だから私は、サッカーが好きなのである。
***
筆者:河内一馬(@ka_zumakawauchi)
1992年生まれ(26歳)サッカー指導者。アルゼンチン指導者協会名誉会長が校長を務める監督養成学校「Escuela Osvaldo Zubeldía」に在籍中。サッカーを"非"科学的な観点から思考する『芸術としてのサッカー論』筆者。NPO法人 love.fútbol Japan 理事。
次回の記事(Vol.2)
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