なぜサッカー選手は“挨拶”をするべきなのか? インタラクションとセンサーの欠如
サッカー選手や、サッカーに関わる人間は、挨拶をするべきだと思ってきた。挨拶をする、という行為は人によっては当たり前の行為であるが、ただ、中にはその感覚が抜けている選手などがいる。
ただこの“挨拶をする”という行為は、何も深くお辞儀をしろとか、目上の人にはペコペコしろとか、礼儀を守れとか、そういううるさいジジイみたいなことを言いたいわけではないことは、先に断っておかなければならない。
いわゆる、スポ根的な、日本の体育会的な「させられている挨拶」ではなく、人間と人間がする、自然な挨拶のことを言っている。例えば練習に来たら、監督やコーチと選手が交わす、にこやかな、自然な挨拶のことである。
ただし、なぜ自分は、サッカー選手、もちろんコーチも同様に、挨拶をするべきだと思っていたのかをうまく説明ができなかったのだけれど、つまり「サッカー選手は挨拶をするべきだ」なんて言うと、上に書いているような「させられている挨拶」の方向性に持っていかれてしまうからである。
写真:レオンってやつ。いいやつだったな。
驚いたのは、アルゼンチン人は、めちゃくちゃ挨拶をする。日本人は礼儀があるとかなんちゃら言われることがあるけど、アルゼンチン人の選手の方がよっぽど、本当に自然に挨拶を交わす。選手は必ず練習に来るとコーチの元に行って「調子はどう?」という会話をする。「させられている挨拶」など、全くしないのである。めちゃくちゃいいな、と思った。
そういえば、サッカーの現場以外でも、彼らは“ちゃんと”挨拶をする。例えばホームパーティのようなことをしていると、決まって遅れて登場した人は、一人一人と右頬を合わせ、あるいはハンドシェイクをして、挨拶をするのである。私が遅れて行った暁には、その姿をみて、私も同じことをする。これが人間の文化への順応というやつだ。
これはなんなのだろうな、と思った。こういった挨拶の文化は、サッカーに関係しているのだろうか?と、あっちにいる間はずっと考えていた。ただ私たちのように、ガッツリ部活動で育った人間は、挨拶とはさせられるものであるというアレルギーのようなものが確かにあって、そういった「挨拶文化の違い」は、「サッカー文化の違い」と、関係性があるのだろうか。
著『デザインの輪郭』深澤直人 に、こういった一文がある。
礼儀がないとか、マナーが悪いとか、だらしないとかいうことは、精神的なことよりも、関係性が見えない、インタラクションの欠如だと思います。
相手が動いたらこう来るというような。自分がやったことに対して、周りの環境がどう変化するかということのセンサーがまったく働かない。
タバコを吸っていて、後ろを歩く人は煙たいということがわからないことのように。音のうるさいバイクのように。インタラクションの欠如はインテリジェントに見えない。センサーが弱いんです。
(中略)今の問題は精神論じゃない。センサーの欠如なんです。
まさにこれだな、と思った。無論これは挨拶について書かれた文章ではないのだけれど、私が「サッカー選手は挨拶をするべきだ」と思っているのは、こういった理由である。挨拶をしない(しなくても平気な人)は、つまりインタラクションが欠如していて、関係性のセンサーのようなものが、非常に薄いのです。自分がこうしたら、相手はこうする、こう思う。相手がこうしたら、自分はこう思う、こうする、というような想像力が、欠如しているのではないか。
サッカーをプレーするということは、言わずもがな『相手が動いたらこう来るというような。自分がやったことに対して、周りの環境がどう変化するかということ…』の連続ですから、そこに“挨拶”という行為の重要性が見て取れます。
挨拶をしないような選手と、サッカーの上手い下手は、まあ確かに関係性があるのかもしれないなと、そう思う。
ここにも、日本サッカーが多くの部活動に見られるように、挨拶しろてめえ的な文化の弊害が、垣間見えて嫌だなあ。
サッカーにおいて、挨拶とは、精神論ではなく、センサーなのです。センサー、働かせよう。
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