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『言い訳』 日本人はなぜW杯で勝てないのか

では、言い訳を始めます。


——よく「練習しないほうがうまくプレーできる」と言いますよね?

練習しなくてもいいチームプレーは、プレーそのものが自然だし、そもそも自分たちに合っているんです。逆に練習しなければならないチームプレーは、プレーがチームに向いていないんです。それに気づいてからは、練習しなくても成立しそうなプレーを考えるようになっていきました。

ダルビッシュ有(カブス)がこんなことを話していたことがあるんです。彼は変化球を試すとき、いきなり実戦で投げるそうです。それがいちばんいい「練習」になるのだと。それを聞いたとき、サッカーと似ているなと思いました。バッターがいないところで投げる練習が無意味なように、サッカーも相手や見ている人がいないところでやっても得られるものはほとんどありません。

サッカーは、相手と、見ている人と一緒に作っていくものです。ここまでならうまくいくけど、これ以上やるとうまくいかないんだな、とか。その感覚は、相手や見ている人の前でやってみないことにはわかりません。そうして毎試合、少しずつ変わっていきます。そういう意味では、一生、練習していくものなのかもしれません。

よく日本のサッカーの現場では「練習でやっていないことは出来ないからやるな」と、そう言いますよね?あれ一理あるんですけど、僕はそう考えることによって、試合中の創造性を失ってしまっていると思うんです。サッカーの全ては、試合です。練習じゃない。試合でうまくなるんです。海外の選手のループシュートとか、一瞬の即興的なプレーとか、あれ練習してますかね?だって、サッカーは試合になってみないと、何が起こるかわからないですから。


——日本人が受け入れられなかった理由は何なのでしょう

サッカーを音楽に例えたら、ロックなんだと思います。ロックの核は、怒りです。一流のサッカー選手は、とにかくいつも怒っています。怒りをプレーにぶつけています。怒りは感情の中で、もっとも熱量が高い。短時間で相手や仲間、お客さんに何かを伝えようとしたとき、いちばんインパクトがあるのだと思います。

怒りがなくてもサッカーにはなります。ただ、W杯で勝つには、怒りに変わる強い何かがないと、なかなか勝って行くことはないのだと思います。

日本サッカーにとって、または日本人選手、監督、またファンにとって、怒りって何でしょうか?それを探すことは、無理なのでしょか?子供の頃、僕はいつもサッカーをしていたとき怒っていて、それをコーチに叱られていました。でも怒りが強いとき、僕はいちばん良いプレーが出来ました。だから僕は、サッカーに「怒り」が必要なことを知っているんです。人間て、そんなに簡単に怒れないんですよ。特に、日本人は。だから「怒り」をプレーにうまくぶつけられる選手は、それだけで才能なんです。


——スタジアムの評価基準を教えてください

僕の中で「うねり」と呼んでいる現象があります。客席が爆発する感じです。サッカーで勝つには、W杯で勝つには、うねるかうねらないかです。


——サッカーは「三角形が理想」とよくおっしゃっていますよね

音楽で言えば、転調です。明らからに曲調が変わるので、仲間が「あれ?」と違和感を抱きかねない。やるほうも、少し怖い。でも、一流のサッカー選手は、じつにスムーズに転調しています。

あのように、掛け合いでうねらせていくのは、理想のサッカーだと思います。仲間と、相手と、「観客」と、きれいな正三角形が出来ていました。

ここでいう「観客」とは、仲間と相手以外の全てのもので、ベンチ、レフェリー、サポーター(客席)のことを言います。サッカーでは、仲間のことしか見ていない選手は論外で、仲間と相手のことを見れている選手はあともう少しです。高いレベルのサッカーを見てみてください。彼らは、仲間はもちろん、相手、そしてベンチやレフェリー、サポーターと、あらゆる手段を使ってコミュニケーションを取っています。三角形なんです。サッカーでは、「観客」が欠けてはいけない大切な要素なんです。


——好きなことを夢中になってプレーしている選手はそれだけで輝いていますもんね

僕らがこれまでよくミスをしていたのは、要は、借り物だったからなんでしょうね。オリジナルなスタイルではないのに、オリジナルな振りをし、そう思ってもないのに思ってる振りをしてプレーしていた。だから、いつまで経ってもプレーが体に馴染まず、ミスをしたり、異様に疲れたりしていた。

サッカーは、自分で考えるものです。その道筋を示すのが最も大事な監督の仕事で、借り物ではなく、自分たちに、つまりプレーをする選手のキャラクターに合ったサッカーをしなければなりません。借り物だと楽しくないし、勝てないし、疲れますよね。


——日本語は、特に標準語は感情を乗せにくい。サッカーに不向きなのでは

東京の日常言葉はまず、誰もが聞き取りやすいよう発展してきたのだと思います。そして、もう一つ、諍いが起きないよう感情を読み取られにくい言葉として変化を遂げてきたのでしょう。

サッカーをする上で、今の東京言葉が勢いをつけにくく、かつ感情を表現しにくいのは、そういう背景があるんじゃないかな。サッカーの核である「怒り」を表現するには、もっとも不向きな言葉だとも言えます。外国人の監督や選手が、気持ちよさそうに感情を言葉に乗せているのを見ると、正直、うらやましくなるときがあります。

好きな人に告白するとき、関東人はなんと言いますか?「好きです」とか「好きだ」ですよね。強調するなら「とても好きなんだ」みたいな感じでしょうか。本当に言いにくい。嘘くさくて、噛みそうです。

そんなとき、外国人は何と言うか。「I love you」「Te amo」です。これなら噛まずに言えそうです。だから彼らは、どこでも愛を伝えられるんだと思います。英語やスペイン語に限らず、多くの外国語は「感情」を伝えるのに非常に適しています。本来、言葉とはそういうものなんでしょうね。それに対し、東京の日常会話は「意味」だけを伝達する道具のようなものになってしまいました。

サッカーというゲームにおいて、監督が行うスピーチと、選手が行うスピーチは、ものすごく重要な役割をしていると思うんです。それが完璧にできないと、モチベーションを100に持っていくことが難しい。アルゼンチンではそれを「La arenga」といい、指導者学校でもそれについての授業があります。でも、アルゼンチン人がいう言葉をそのまま日本語に訳すと、なんかこう小っ恥ずかしいというか、日本人の文化から離れすぎているというか…羨ましいなと、いつも思います。「全ての魂をこの試合に捧げるんだ…」とか、ちょっとあれですよね。

彼らのスピーチを聞いていると、なんか、本当に勝てるような気がしてくるんです。感情を120%乗せて話す彼らを見ると、ああ、これはちょっと日本人には真似が出来ないなと。本当にすごいんですよ。そもそも、歴史的に西洋人は人前に立って演説をする文化があって、そのような言葉遣いというか、演説のしやすい言葉に進化してきたのは当たり前のことなんですよね。僕は英語とスペイン語を話すんですけど、なんで外国語ってめっちゃ早く喋っても噛まないんですかね?日本語って、早く話そうとするとめちゃめちゃ噛む。演説ってスピードの変化が大事なのに…。東洋には、その文化がなかった。もうこれは、仕方がない。逆に日本語って、世界で一番文章に感情を乗せやすいんじゃないかなと、僕はそう思っているんですけどね。

僕らが彼らのように話せば、それは滑稽に映ってしまうから、すごく厄介。でも、日本人は日本人の方法で、人の心を動かすような話し方をしないといけないですね。こういうのが、サッカーの勝敗を分けますから。


——「絶対サッカー感」っていう言葉をよく使いますよね

生まれつき歌のうまい人って、いますよね。美空ひばりさんや宇多田ヒカルさんのような人です。同じように生まれつきサッカーがうまい人もいるもんです。「絶対音感」ならぬ「絶対サッカー感」のようなものがあるのだと思います。


——ただ、日本代表も、W杯は衝撃度が薄れてしまいました

W杯は、一種のプロレスでもあります。過剰な物語を仕立て、参加者や視聴者の感情を煽り立てるのです。選手もそれに乗っていきます。

今年の女子W杯もそうでしたけど、やっぱり物語がある国が勝つんですよ。フランスも、2010年に空中分解してバラバラになってから、復活して、プライドをかけて優勝する物語があった。その前のドイツもそうですよね。とにかく、代表チーム然りサッカーのチームには、物語がないといけません。作り出すんです。
そう考えると、かつては初出場〜とか、初決勝トーナメントをかけて〜とか、開催国〜とか、物語が乗っかっていた日本代表でしたが、今、なんかありますかね…。昔の日本代表にはいつも感情を動かされましたけど、今はあまり感情が動かない。その点、前回の「ベルギー戦の屈辱から〜」みたいな物語が出来るかもしれないけど、なんか、違う気もするんですよね。昔ほどのものはなくなってしまったというか…


この記事は、ぶっちゃけ、言い訳です。日本がW杯で優勝していたら、何を言ってもカッコいいのですが、そうではない。おまえが偉そうに何を言っているんだという話です。もっと言えば、負け惜しみです。

ずっと、ずっと、考えてきました。どうやったらW杯の決勝で勝てるのだろう、と。僕が出れるわけではないのですが、今もつい考えてしまいます。それを考えることは、僕にとってどう生きるかという問題とほぼ同義なのです。






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※この記事は、著書『言い訳 関東芸人はなぜM-1で勝てないのか』 ナイツ 塙宣之 のオマージュです。

文中の言葉は、どれも著書の中でナイツの塙宣之さんが書いていることを、ほとんどそのまま「サッカー」に置き換えて書いたものです。ただ、唯一グレーの四角で囲まれた部分に書いてある文章は、正真正銘、私河内一馬の言葉です。

ここです

僕は世の中にある、あらゆる事物を、全てサッカーに変換して考える性癖を持っています(持ってしまっています)。本を読むときも同様で、ナイツの塙宣之さんが漫才を分析したこの著書も、例の如く、いつも通り脳内で自動的にサッカーに変換作業をしながら読みました。今回は、せっかくならそれをオマージュして、「サッカーは全ての物事から学び、思考することができる」という私のモットーを、皆さんに共有できればと、そう思った次第です。

この本、すごくおもしろいので、なんでもサッカーに変換して考える性癖を持っている人は、ぜひ読んでみてください。

漫才って、本当にサッカーみたいなんですよ。



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河内一馬
1992年生まれ(27歳)東京都出身 / アルゼンチン在住 / サッカーを"非"科学的視点から思考する『芸術としてのサッカー論』筆者 / 監督養成学校在籍中(南米サッカー協会 Bライセンス保持) / NPO法人 love.fútbol Japan 理事

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