「生きる(お金を稼ぐ、税金を払う、社会のピースになる)」ことへのリアリティと幸福
成長した、伸びた、上手くなった、器用になった、できるようになった、向上した……などの「実感」は、幸福に生きるために欠かせない要素なのかもしれません。なんの目的もなしにただ生きているような人でも、「仕事」や「趣味」あるいはその他の「ライフワーク」に情熱(という言葉が適切かどうかは分かりませんが)をもっていないような人でも、その生活を「保つ」=「生きていく」ためには例外なく成長や工夫が必要(それが分かりやすい成長や工夫でなくとも)で、それが生きているということだと思います。
幸福になるためにその類の実感が欠かせないと書きましたが、違った言い方をすると、「不幸にならないために」の方が適切なのかもしれません。「〇〇がしたい(になりたい)」と「〇〇がしたくない(になりたくない)」は、時と場合によってはほとんど同義です。
私の場合「〇〇がしたい(になりたい)」から考え始めると、先が見えなくなってしまいます。そういった問いは私にとって、結局は「なぜこの世に生まれたのか」に到達してしまうため、意味がないのです。誰も選んでこの世に生まれて人間として生きているわけではないからです。
これは、「なぜサッカーをしているのか」を考えていた子供の頃の私に似ています。でも、その問いから始めることは、ほとんど意味がないのです。なぜなら、私がサッカーを“選んだ”わけではなく、“選ぶ可能性のある環境いた”だけだからです。言うなれば、受動でもなく、かといって能動でもないのです。
ある時、「なぜサッカーをしているのか」という問いから、「サッカーで何がしたいのか」という問いに変わったところで、私の人生はスムーズに進むようになります。それは過去への注目から、未来への注目への変換を意味し、私が初めて私の人生に「サッカーを受け入れた」瞬間だった、ということだと思います。なぜそれが起きたのか。
例えば学生のうち(若いうち)は、私がそうであったように、自己啓発難民になることができます。
お金を稼ぎ、税金を払い、社会のピースとして生き、次世代に何かを残していくことにリアリティがないからです。
「俺がやりたいことはなんだろう」「俺はこれがやりたいんだ」「俺が好きなことは」「俺が成し遂げたいのは」……そういった発想を自由に(誰にも邪魔されず何にも邪魔されず)膨らませることができます。そういった投げかけを人々にするだけでお金を稼いでいる大人がいることも、それを助けます。その度に、私は麻薬的に「これだ!」とハイになっては、「俺にはそれを成し遂げる情熱もなければ努力もできない…俺は怠惰だ…」と落ち込むのです。
ただ私の場合、学生が終わって、年齢が上がるにつれ、「生きる」ことへのリアリティが出てきた時、「何がしたいのか」よりも「何を絶対したくないのか」が明確に見えるようになり、また「何が好きなのか」よりも「何が猛烈に嫌いなのか」が、明確に見えるようになりました。
なぜかというと、子供から青年にかけて「なぜサッカーをしているんだろう」ばっかり考えていた自分は、「サッカーから全く違う世界に行けば、そこには幸福が待っているのではないか?」と無意識に逃げ場を設けていたくせに、結局ほとんど何もしないまま、自分のことも何もわからず、幸せな状態ではないことだけは、わかっていたからです。このまま精神的に煮え切らない人生を送らないためには、やっぱり「したいこと」よりも「したくないこと」を知ることの方が、理にかなっている、と思ったのでした。
私の本当の幸福は、ここから始まったように思います。「やりたいことが見るからない」「好きなことが見つからない」「何をしたらいいかわからない」という人は、「絶対にやりたくないこと」「めちゃくちゃ嫌いなこと」「どう考えてもできないこと」を探すといいと思います。
そうすると、私がそうであったように、今自分がしていることを「受け入れる」ことができるようになったり、「これだったらできそう」なことが見つかったりします。そこで、動くのです。
それから、だんだん、自分が好きなこと、自分がしたいこと、自分がするべきこと、が見えてくるようになります。私はそうでした。
ここで初めて、成長や、向上、経験の数々を実感することが、幸せに繋がっていくのでした。30歳を手前にして、そのような段階に入ったなと感じています。
『置かれた場所で咲きなさい』(渡辺和子)という言葉がありましたが、これはそういった意味なんだと思います。やりたくないことでも、耐えろ。とか、居たくない場所でも、逃げるな。とか、そういうことを言いたいわけではなく、私が「サッカー」という「場所」を受け入れることができたように、その場所は自分の能動的なチョイスではない(ないかもしれない)のだから、じゃあ、それを使って、あるいはそれを通して、何がしたいかを考える。それがパッと出てこなかったら、「何がしたくないか」を考えて、その「したくない」ことを回避するためには、その「場所」はどう役に立つか、その「場所」とどう関わることができれば私は不幸にならないのか、そういった考えをすると良いかと思います。
何かすごくネガティブのように聞こえますが、私は今めっちゃ人生が楽しくて、仕事が楽しくて、幸せなので、こういった考え方も悪くはないのではと思います。もちろん楽しくないことも苦しいこともありますが、受け入れることができています。それが生きるということなのではと、思っています。
今の方が、昔の「サッカーから違う世界にいきたい」と悶々としていた自分より遥かに容易に、違う世界にいくことができるかと思います。でも、なんの仕事をしても、どんな人生を送っても、きっとそれは同じ「場所」なのだと思います
Photo: Kotaro Matsuo
このようなことを書いていると、
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