"ダサい"組織が死ぬ理由——。なぜサッカークラブは"クール"でなければならないのか
潤沢な資金をもってしても、優秀な選手や監督をもってしても「ビッククラブ」に変貌を遂げることが出来なかったクラブ(チーム)は少なくない。同じように、かつての栄光を粉々に砕かれ「ビッククラブ」から「スモールクラブ」に落ちこぼれていったクラブや、「ビッククラブ」への野望を持ちながらも「どっちつかずの状態」が続いているクラブもある。それは一体、なぜなのだろうか。
もしも、もしもその原因を解明することができれば、日本サッカーは新たなステージに突入することが出来る——。
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■なぜ「ダサいクラブ」は「弱いクラブ」になるのか?
前の記事で、長期的な強さ(=ビッククラブ)へと変貌を遂げられるか否かの鍵は「クールであるかクールでないか」であるという「隠れた真実」が存在していることは前述した。
ただし、現段階ではあくまで私の仮説の範疇を抜けることが出来ない。ここからはその理由を具体的に上げていくことで、なぜ「**クールでなければならない」と主張するのか、その根拠を示す。
**クールは『視覚』『哲学』『機能』によって構成される。これを「ブランディング三角形」と呼ぶ。
理由①:"超"短期的思考
短期的思考でつくられた「ダサくて強いクラブ」は「ダサくて弱いクラブ」へと着地し、長期的思考でつくられた「クールで弱いクラブ」は「クールで強いチーム」へと着地する ——前回記事より
既に理由の一つとして上げているのは、「ダサいクラブ」というものは「短期的思考」によってつくられている(もしくはプランがない)可能性が高いため「いずれ衰退する」という点だ。
短期的思考によってつくられた「ダサくて強いクラブ」は、基盤が脆い(ブランディング三角形が構成されていない)ため、一時的な結果に過ぎず、何かを境に再び「ダサくて弱いクラブ」に着地する可能性が非常に高い。
■なぜ短期的思考に陥るのか?
ただ、それは非常に奇妙なことである。「長期的に成功する為には長期的に物事を考えなければならない」という概念は、恐らく誰もがわかっていることであり、これに対して反論をする人間は少ないのではないかと思う。ではなぜ、わかっていても尚「短期的思考」に陥ってしまうのか?
私は「日本人の特異性」と「サッカーの特異性」の組み合わせが原因であると考えている。ここではそれを「"超"短期的思考」と呼ぶ。
■日本人が持つ特徴
日本軍の戦略思考は短期的性格が強かった。(中略)決戦に勝利したとしてそれで戦争が終結するのか、また万一にも負けた場合にはどうするのかは真面目に検討されたわけではなかった。日本は日米開戦後の確たる長期的展望がないままに、戦争に突入したのである。——『失敗の本質』日本軍の組織論的研究 (中公文庫)より
様々な文献において、日本軍の敗戦理由の一つとして「短期決戦思考」が上げられている。物資が長期的には足りないことを知りながら「それいけ」と戦いを挑むのが日本人である。『芸術としてのサッカー論』の中でも度々触れてきたが、現代の日本人に残っている致命的な欠点であると私は考えている。「短期的思考」は、私たちのDNAに組み込まれているのかもしれない。
■短期的思考がもたらす「パターン」
以前この『芸術としてのサッカー論』の中で、日本人にはある「パターン」が存在すると主張した。
日本サッカーは「日本人を外国に出す」ことよりも「外国人を日本に招く」ことにお金が使われる。それは「短期的思考」がもたらす発想の一つだと考えられるが、(外国人が関わる / 関わらないを除いて)日本には「成功(驚異的なスピード)」を収めたのち、成長が止まり、その後「後退する(スピードが遅くなる)」というパターンがある。
■なぜ日本は「初速」が早いのか?
例えば日本経済も、日本サッカーも、他に類を見ないほどに驚異的なスピードで成長を遂げた過去がある。それは成功だろうか、失敗だろうか?なぜ日本という国は、そのようなことが起こせる(起きてしまう)のだろうか?まずはそれを理解する必要がある。
【1】ビジョンの"不"必要性
そもそも日本という国は「長期的ビジョン」を必要としてこなかったのかもしれない。戦後の日本経済はアメリカというモデルケースがあり、日本サッカーにはヨーロッパというモデルケースがあった。全てがコピーだったとは言えないが、限りなくそれに近い状態ではないだろうか。何かをコピーすることとは、「写実」であり「芸術」ではなく「短期的価値」はあっても「長期的価値」はない。
■写実は芸術か?
もちろん「写実」と「芸術」を二分化することは不可能であるし、本来は芸術を「短期」と「長期」に分けることもできない。西洋美術史に「写実主義」があったように、写実もまた芸術と捉えることが出来る(人が何かを芸術だと思えばそれは芸術である)。現在でも19世紀に描かれた写実絵画に価値が置かれていることをみると、「長期的価値がある」とさえ言えるかもしれない。しかし、当時とは様々な前提が異なることを理解しなければならない。
『落穂拾い』ミレー
当時は、絵画に普通の人間、ましてや労働者、日常的なシーンを描くことはタブーとされていた背景がある。つまり「コピー(写実)」こそが「オリジナル(芸術)」だったと言える。世の中に抗うプロセスそのものが芸術だったのだ。さらに、当時は現代のような精巧に映し出される「写真」がなく、現実世界のものを「リアル」に描くことは、技術が高ければ高いほど芸術的と言える。今でこそ、人が絵を描こうと思えば既存の「色」が画材屋にあり、それらはカテゴライズされ、自分のイメージに合うものを「選ぶ」ことが出来る。しかし、過去はそうではない。自らを表現するためには、原料を選択し、調合し、実験を繰り返し、色を「作る」必要があった。その過程で、個人による芸術的相違が生まれていたのだ。
■現代サッカーにおける「写実」の価値
現代サッカーにおいて「写実」に長期的価値はない。「コピー」自体がタブーでもなければ、サッカーにおける「写真」はかなり精巧に映し出される。サッカーの「絵の具」や「キャンパス」はすぐに手に入るため、「正確にコピーが出来ること」の難易度は下がり、長期的価値は皆無に等しい。今後は、サッカーにおけるコピーは難易度が下がり、W杯を開催すればするほど、各国の特徴(戦術戦略的)は消えていくことだろう。
「まるで写真のような絵」が「驚き」という短期的価値を生むように、サッカーにおいても「試合単位の勝利」という短期的価値のみが生まれる。私がこのブログを『芸術としてのサッカー論』と名前をつけている理由がこれであり、日本サッカーに足りないのものは「科学」ではなく「芸術」と主張する理由もここにある。
【2】納得をしないまま進む日本人
何かの授業を外国人と受けていると、気付くことがある。外国人(ここではあえて一括りにする)は納得しなければ前に進まず、日本人は納得しないまま前に進む。外国人の場合、もし「理解できない点」があった場合は、直接言葉にするか、明らかに態度に出る。「この人はわかってない」という雰囲気を全員が察するのだ。しかし日本人(ステレオタイプ)の場合、授業が自分のせいで止まることを気にし、何かの恥を感じ、内に秘め、わからないまま前に進む。内にある感情を隠すのが日本人は抜群にうまい。この違いは授業の「スピード」に影響を与える。「テキストのページ数が進むのが早い」のは、我々日本人なのだ。
しかしそれが最終的に何を生むのかは、火を見るよりも明らかである。
高度経済成長も、日本サッカーの躍進も、上図ような状態だったことが予想される。トップ以外は納得のいかないまま働き、ただ上の指示に従い、数字を求め、無理をし、必死に働いたからこそ成し遂げたことだったのであれば、現代における日本企業の停滞や、相次ぐ不祥事も説明がつく。現在では、過去の働き方から脱出できない日本人が、過酷な労働に人生を奪われている。
■【1】と【2】が生むもの
入口で消化されなかった「小さな問題」は、徐々に取り返しのつかない「大きな問題」へ移行する。その結果様々な問題を連載的に生じさせてしまうのは前述した通りである。それだけではない。
初速を無理やり早め、短期的な成功を収めた組織は、過去の短期的成功に縛られ、戦略から「柔軟性」が消える。日清戦争と日露戦争で勝利した日本軍が戦略を変えられなかったように、日本サッカーも同様、過去の成功例に溺れ、何かを変えることや、何かをやめることができない。これこそ、短期的思考によって短期的成功を収めることの「最大の失敗」である。「スピード」によって成功を収めてきたはずの組織は、変化に怯え、身動きが取れなくなり、すべてのことに慎重になった結果スピードが落ち、気づけば置いていかれている。
そして、いつの間にか「長期的思考」が抜け落ちているのだ。
■サッカーが「短期的思考」を誘発する理由
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