20代の責任世代へ 『50年後のサッカーを、じっくり考えよう』
学校が封鎖する。それが1つのデッドラインだと、ある人は言いました。地方の学校が生徒不足によって閉鎖すると、そこから一気に住民が減っていき、移住者を増やすことをさらに難しくしてしまう。子供が居る家族が、もしくは子供を持つ予定の夫婦が、学校に通えない場所に住むのは極めて困難だからです。
ここで、あらゆる疑問が浮かんできます。これまで日本サッカーの選手育成において大きな役割を担ってきた地方の高校(部活動)は、これからどのような道を辿るのでしょうか?地方にある強豪校へ入学することを目的とした都市部からの移住(子供のみ下宿)は、これまでのように継続して行われ、むしろそれを地方の衰退を止めるひとつの方法として機能させることはできるのか?それとも地域が衰退していくに従って、地域自体の体力が奪われ、サッカーの強豪校にも影響を与えるのか…
これからの日本サッカーが明確な戦略を立てずに人口減少時代(=競技人口減少時代)を迎えてしまえば、日本サッカーの成長が止まることはある程度想定ができてしまいます。逆にこれを「契機」と捉え、何か良い変化を起こすことは出来るでしょうか——。
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■日本の少子化
少子化が進行しているのは今さら言うようなことではないですが、これからますます「子供(サッカー選手の卵)」が少なくなっていきます。内閣府が公表している2017年のデータでは「1,559万人」であった年少人口(0〜14歳)ですが、2065年(約50年間後)には「660万人規模の減少」が起きます。現在の「千葉県の全人口(625万人)以上少なくなる」規模ということです。日本の少子化が極めて大きな「前提の変化」であることは間違いないでしょう。
「2065年」という年は、日本の総人口が8,800万人前後になると予測されている年です。私もまだ生きている可能性がある頃ですが、今から50年が経つと、5,000万人程今と比べて人口が少ないということになります。今の感覚でいえば「関東・関西・中京以外の人々が全くいなくなる計算」です。
■日本サッカーの競技人口減少
一方、上の図が日本サッカーの競技人口の推移です(赤が前年よりも増えた年、青が前年よりも減った年)。
日本全体の人口が明確に減少し始めてから約7年遅れて(2014年をピークに)「サッカー競技人口の減少」が始まっているということは既に触れました。2014年(日本サッカー競技人口のピーク年)における「小学生以下〜中学生」の競技人口と、2018年の同年代の競技人口を比較してみると、すでにこの4年間で「76,143人」の減少が起きていることがわかります。
日本サッカーは、この状況に対して何かしらの準備を行う必要はないのでしょうか?
■人口減少時代に舵を取る世代
これまでの「日本サッカーの育成の成果」と呼ばれているような(思われているような)ものには、あまり根拠がありません。「指導者に対しての見解」はその最たる例です。
既に言及しているように、日本が「人口大国」であり「経済大国」であるという他国にはないアドバンテージを持ちながら、それに伴う「競技人口の右肩上がりの増加という前提」のもと歩みを進めてきた日本サッカーは、これまでは「自然に成長するフェーズ」であったのかもしれません。難しいのは、ここから上のレベルに到達することです。
私たちの世代はこれから30代を迎え、日本の全人口が8,000万人台に落ち着くまでの間、ちょうど「生産年齢人口」の1人として多くの時間を過ごすことになります。日本の急速な人口減少によるあらゆる困難(変化が必要な時期)を「責任のある世代」として過ごすということです。
それは日本サッカー界においても同様であることを意味します。サッカー選手の卵、いわばサッカーというものを、価値(競技としての価値・商業としての価値)がある存在として日本に維持し続けるために「必要な宝(資産の数)」がここから減っていきます。その時代の舵をとることになるのが、今の若い世代、私たちなのです。
■小さな変化は必要ない
このような体罰に関連した問題は、現在でも日本サッカー界(スポーツ界)に深く根付いています。これから先の「競技人口減少時代」においては、このような人間が犯す罪は、より日本サッカー全体に影響を与えていくことになります。若者は今以上に「貴重な存在」になり、日本社会全体に与える影響も大きくなるでしょう。日本の選手育成の方法論は、今のまま「小さな変化」をしていくだけで充分なのでしょうか?確かにこれまでは「小さな変化」もしくは「変化をしない」ことこそが、予定調和に発展をしていくためには大切なことだったのかもしれません。しかし、これからは事情が異なります。
私は2065年に日本サッカーがどのようになっているのか、自分たちがどのような下地をつくったのか、つまり『「量」が多くなくても「質」で補うことができる「選手育成」や「指導者養成」の基盤』は出来ているのか、そのようなことに興味関心があります。
競技人口が減るということは時期に指導者の数も減っていくということを意味します。競技未経験者が指導者になる可能性は極めて低いためです。では少なくなっていく指導者を、これからどのような視点で育てていかなければならないのでしょうか?世界で戦えるレベルにいないのは、選手ではありません。その環境を設計する大人であり、指導者です。
■育成戦略構築のポイント
①:育成機関の統一化
②:エリート組織の再定義
③:グローバルスケール教育
私は、これからの日本サッカーの育成戦略を構築していくにあたって、以上3つのキーワードがあると考えています。以下1つ1つ、どのような意図があるのかを説明していきます。
■育成機関の推移
ところで、競技人口の減少に合わせて、すでにチーム数が減り始めていることは数字上でも確認することが出来ます。女子・シニアを除けばそれぞれのカテゴリーにおいて減少が始まっていることがわかります。
2002年から2018年までの間では、太枠で囲まれている年がピークになります。全体としては、2007年をピークに減少が始まっていることがわかります(歴史上日本サッカーのチーム数が最も多かったのは1996年)。
以下育成年代のみに注目してみると、2014年をピークにチーム数の減少が始まっています。2014年は「日本サッカーで最も全体の競技人口が多かった年」なので、当然ですが「総競技人口」と「育成年代のチーム数」はある程度比例していることがわかります。
①:育成機関の統一化
今後日本の国内需要が減り、外国人をもって労働力を補うことができない企業や、国内需要のみで利益をあげている比較的規模の大きな企業は、状況に沿ったシフトチェンジをしない限り廃業を余儀なくされることになります。
それと同じく、日本サッカーにおける部活動やクラブ、つまりサッカー選手を育成する組織においても、子供の絶対数の減少に伴う「競技人口の減少」によって所属選手を確保することが難しくなり、組織自体が次々と消滅していく未来が予想されます。
競技人口が減っていくことは、例えば現在のように「1チームに100人」が所属しているような「過多」の状態と比べれば、むしろ良いことのように思えるかもしれません。ただしそれをプラスに働かせるためには、そのための準備をし、事前に構造をつくっておかなければなりません。例えば組織を存続させるために、少ない子供の奪い合いが始まり、健全ではない競争が行われたり、今以上に結果至上主義に陥ってしまう可能性もあります。人数は減っているのに、試合に出してもらえない選手の数は変わらない、といった状態は絶対に避けなければなりません。
そのために重要なのは「止むを得ないチーム数の減少」ではなく「計画的なチーム数の縮小(統合)」であると私は考えます。
■論争に終止符を打つ
日本のサッカーでは、よく「高校サッカーとクラブチームどちらが良いのか?」という論争が行われます。しかしこれは非常におかしな論争です。すでに言及しているように、「高校サッカー」を支持する人々がその理由としてあげるのは「理不尽による精神力」および「人数による競争力」の2つであること多いですが、これには明確な根拠が存在していません。高校サッカーからこれまで優秀な選手が出てきた理由をこの2つに無理やり当てはめてしまうことで、以下記事のような不毛な論考が生み出されます。
当然、出身選手も自分の過去を否定することは(人間の性で)出来ませんので、「あの時の理不尽があったから今の自分がある」と発言を続けていくことになります。日本サッカーから体罰等の話が絶えない理由、また「高校サッカーか?クラブチームか?」といったような論争が終わらない理由です。
もちろん全てを否定することはどちらにせよ出来ませんが(誰かの人生を2回検証することが出来ない為)、未来のことを考えると、疑いを持ち「本当に理不尽にされなかったら自分はここまで育たなかったのか?」と、そう考え直すことの方が重要なのではないでしょうか。
また、ここにおける要点は『これまでは「理不尽による精神力」を鍛えるために犠牲にされた才能がたくさんいたとしても、また「大人数による競争力」のために犠牲にされた才能がたくさんいたとしても、問題がなかった』ということです。その中からたった数人、たまたま育てば良かったのです。ただ、これからは競技人口自体が減っていくので、このような育成では全く世界に太刀打ち出来なくなっていくことは明らかです。
ただ私は決して「高校サッカーはダメで、クラブは良い」と言いたいわけではありません。これからは「いかにうまく手を組むか?」ということが必要になる、ということです。
■高校サッカーとクラブチームの統合
部活動という制度を利用した高校サッカーには「選手が3年間チームを変えることが実質出来ない」という「それだけで圧倒的な欠陥になりうる構造的問題」があります。これから少なくなっていく宝たちを大事に守っていくためには、この構造的問題は非常に厄介な点になります。ただ、それだけで高校サッカーがすでに持っているインフラや、教育機関としての利点、高校サッカーで指導をする優秀な指導者などを0にしてしまうことは、日本サッカーにとって大きな損失になります。
育成年代における競技人口の減少によって、これから「止むを得ず消滅」していくようなチームが出てくる前に、今の段階から計画的な統合をしていくことで、インフラや知識、人材をバランスよく分け合い、文字通り日本全体で手を組みながら育成を実行していく、ということが必要になると私は主張します。
その点において、現在の「部活vsクラブ」という議論を辞め「部活×クラブ」と考えることで、それぞれが良いところを残しながら、日本にしか出来ない育成形態をつくる必要性に迫られています。
■セカンドオピニオンの概念
医療の世界には「セカンドオピニオン 」という、患者に与えられている「権利」が存在しています。セカンドオピニオンというものが、主治医とは別の医師に対して意見を求める「行為」である、ということは周知されていると思いますが、これが患者に与えられている「権利」であることを知らない人は多いのではないでしょうか。
では、なぜこの権利が保証されなければならないのか。それは、たとえ西洋医学のような最新科学を用いた現代医学においても、ある一人の医師が行う診断から「主観」を取り除くことは出来ません。それが意味するのは「必ずしも診断が正しいとは限らない」ということです。この「疑いの余地」を理解することが、セカンドオピニオンという「権利」に繋がります。医師によっては全く異なる診断をする可能性があり、患者には別の医師の診断を受けることができる権利が与えられているのです。
日本サッカーにおける育成年代の選手たちは「セカンドオピニオンの権利」が与えられていません。
■サッカーにおけるセカンドオピニオンの必要性
前述した通り、日本サッカーの育成には「3年間チームを変えることが事実上出来ない」という構造的な欠陥があります。学校教育のサイクルに合わせた部活動における育成ではそれが顕著になり、クラブチームにおいても移籍ができるような文化は存在していません。
つまりそれは、自分が病気になった時に「ひとつの病院にしかいくことが出来ない」ということです。もしかすると、その病院は思ったより通いづらい場所にあるかもしれません。もしかすると病院の雰囲気が自分には合わないかもしれません。その病院の医師の話が信用できないかもしれません。それでも一度その病院に行ってしまったら最後、他の病院へ行くことは出来ないのです。
サッカーをする子供に置き換えると、例え評判が良いチームであっても自分には合わなかったり、指導者の言っていることが自分の考えとは極端に合わなかったり、チームメイトと自分のプレースタイルが合わなかったり、そういうことは当たり前のように発生します。日本の子供たちは「お前のプレーはこうだ」とたった一人の指導者に診断されたら、他の指導者の診断を受けることは出来ないのです。
この状況が、これまでどれほどの才能を潰してきたかは想像に難くありません。これからは、さらに大きな構造的欠陥となります。
■移籍は「権利」と「意識」で行われる
日本のサッカーをする子供たちに「セカンドオピニオンの権利」を保証するには「制度」を整え、選手たちに「権利を与える」ということと同時に、選手や指導者(組織)の「意識を変える」という作業が必要になります。権利を行使できる制度が整い、その権利を持っている子供の意識、また周りの意識が変化して初めて有効に機能することになります。そのためには、育成機関を管理するトップ(JFA)が「育成年代においても移籍を当たり前にしましょう」という声明を出す必要があります。
また同時に、現状の「部活vsクラブ」という縮図ではなく、部活動とクラブがあらゆる意味で正式な契約をもって協力をすることが、大事な視点になります。現在のように「クラブから部活動(高体連)に移籍した選手は6ヶ月間公式戦に出場することが出来ない」という制度や、クラブ間移籍がタブーであるような意識を早急に改善し、まずはあらゆる選択肢を選手に与える必要があります。
同じ地域にある部活動とクラブチームが手を組むことで、子供たちの選択肢を増やすことができることに加え、インフラを分け合うことができたり、例えば指導者がもっている知識を共有し合うことや、お互いの指導状況をチェック(客観的に監視)し合うこともでき、体罰問題を減らすことにも繋がります。工夫次第で、様々なエコシステムを構築することが出来るのではないでしょうか。
■「消滅」ではなく「縮小」
これは「クラブ間」に関しても言えることです。先述したように、これからは競技人口が減少していくので、それに合わせてチーム数が必然的に減っていくことになります。それであれば、所属選手が減っていくことによって「消滅」するのではなく、現段階から計画的に同じ地域にあるクラブを「統合」し、「意図して減らす(縮小)」という考え方が必要になるのではないかと私は考えます。「小さな組織と小さな組織」では出来ることが限られますが、計画的な統合をして「大きな組織」にすることで、可能性は広がります。
つまり「ソフト・ハードの環境をバランスよく分配する」ことが、これから子供の数が減っていく時代を迎えるにあたって、重要な戦略的視点になります。その準備が整っている状態であれば、選手の絶対数が減るという事実を契機に、日本サッカーの育成の「質」をあげることが出来る可能性があります。競技人口減少時代には、制度、意識、あらゆる観点から「育成機関の縮小(統一化)」を行っていかなければなりません。
■高校サッカーの欠点
また、ひとつ高校サッカーの欠点と言えるものがあるとすれば、学校のような教育機関が「極めて閉じられた世界」であるという点において、日本サッカー協会(日本サッカーの舵を取る機関)が外部から圧力をかける事ができない、または管轄することが出来ない、という点です。つまり「外から影響を与えることが難しい」ということです。
例えば「日本の教育を変えよう」という作業は非常に主語が大きく、あらゆる複雑な要因が絡み合っていて難しいでしょう。しかし「日本のサッカーを変えよう」という作業は、比較すると本来小回りが利き、難易度が下がるはずです。何らかの制度をトップダウンで制定することも可能です。例えば体罰などの問題に対してもそうですが、日本サッカーのトップが制度をもって撲滅しようとしても、それが学校のような教育機関(外から影響を与えることが難しい機関)に対して、圧力を加えることは実質出来ません。
■テクノロジーによる統一
以上のような観点から見ても、実質的な統一化を進めるとともに、全国の日本サッカー協会加盟チームを網羅したアプリケーション等の開発によって、デバイス上で(テクノロジーによって)の「統一化」も早急に進めていかなければなりません。
日本サッカーの育成の世界では、これだけテクノロジーが発展した社会であるにも関わらず、いまだに「練習試合のマッチメイクをする」必要性や「練習試合の審判を指導者が務める」必要性、また「育成年代の試合がどこで何をやっているのかわかりにくい」など、非常に効率の悪い状況が当たり前になっており、生産性に欠けてしまっています。それによって同じチームと試合を繰り返すしかない状況をつくってしまったり、試合をしているチームの指導者が審判をしなければならない状況は、選手のためにも、指導者のためにも能力向上という点で都合が悪く、また審判の育成という点においても機会損出になり兼ねません。それらを全て解決するアプリケーション、サービス、仕組み作りは、決して不可能なことではありません。
このように、若くしてテクノロジーを熟知するこれからの世代のエンジニアや組織に対して、日本サッカー協会が投資をしていくなどの視点も、必ず必要になっていくことでしょう。
日本は交通機関が優れている国です。その利点を活用し、あらゆるテクノロジーを用いて、何らかの形でマネタイズをし、例えば異なる都道府県間でも練習試合が可能になるようなシステムを作ることは、私には決して不可能には思えません。
②:エリート組織の再定義
その上で重要になってくるには「日本における最高水準の育成機関を明確にする」という作業です。つまり、日本の選手、指導者、その他人材のエリートが集まる機関を「明確に設置する」ということです。それに加えて、ハード面の環境、最高水準の知・技術(テクノロジー)が揃う育成機関を『ここです』と明言し、その場所を日本の育成のトップ組織として据えるのです。海外ではこのような役割をプロクラブが担っている場合も、協会が設立した機関が担っている場合もあると思います。
■エリート組織とは何か
サッカーの育成における「エリート組織」とは「優秀なプロサッカー選手を多く世に輩出するため」に、才能を育て、守り、あらゆる分野における優秀な人材が集まっている場所であるという自己認識をもち、またそれを実現する環境が揃っている組織のこと
これはあくまで私が定義したものですが、大事なポイントは「優秀なプロサッカー選手を多く育てる場所」という点です。ここがブレてしまい、「必ずしもプロ選手になることが目的ではない」などとしてしまうと、それは「他の組織が既にやっていること」であり、エリート組織ではなくなります。また「人間教育」などの観点も、それは「目的」ではなく「当たり前のこと」です。それらの点で、日本に「エリート教育」という形で存在しているJFAアカデミーは「エリート組織」ではありません。
『常に(どんなときでも、日本でも海外でも)ポジティブな態度で何事にも臨み、自信に満ち溢れた立ち居振る舞いのできる人間を育成する。』という評価のされずらいフィロソーを掲げ、以下のような非常に曖昧な目的をもって存在しているからです。
これでは、組織にかかるプレッシャーも、責任も、持つことが出来ません。
■明言することの意味
「エリート組織」を明言する、つまり「日本全国誰に聞いても『あそこが日本の最高水準の育成機関だ」という認識をつくりだすことの意味は、非常に大きいです。組織にプレッシャーや責任が伴い、それによって質を上げざるを得なくなることもそうですが、各分野における最高水準に優秀な人材が集めやすくなること、また「子供達の目標の場所が出来る」という点でも、必要不可欠です。「サッカーがうまい子は、あそこの組織に行けば才能を守ってくれるはずだ」という認識があれば、才能のある子どもがひとつの場所に集まりやすくなります。
「エリート組織」というのは、「量」がいない中で「質」によって補うためのひとつの手段ですが、あらゆる手段を使って「才能を守り、プロサッカー選手を輩出する」という点に加えて「育成のサイクルを世界基準に早め、若い段階で海外へ出たり、もしくは若くしてプロデビューが出来る選手を増やす」ということをしていかなければなりません。
あまり若い段階でプロとしてデビューさせることは、教育上(もしくは人生設計として)良くないのではないか?と思う人もいるかもしれませんが、本当にそうでしょうか?私はそれよりも「プロ選手になってから」様々な学びが出来る環境を整え、途中で他の世界にすぐにでも行けるような準備を現役中に多く行っていくことの方が、重要ではないかと私は考えます。
つまり「プロサッカー選手(になってから)の教育」の質を高めていけるよう、基盤を作るのです。プロになろうがなるまいが、はやくデビューしようがしまいが、どちらにせよ「サッカーをしない」人生はやってきます。であれば、若くしてプロという経験をさせることに、あまりネガティブな面は見当たりません。世界には、18歳前後で活躍をしている選手たちの存在があることを、決して忘れてはなりません。
③:グローバルスケール教育
そして最も重要なのは、上記したようなことが「グローバル」の視点・規模・基準で行われているか?という点です。サッカーというゲームは、グローバルスポーツであり、グローバルビジネスです。この事実が揺らぐことはありません。
前回の記事でも触れたように、まずは移籍市場に置いて日本の育成機関がしっかりと対価を受け取れるように既存の問題を早急に解決し、その上で欧州市場のプロサッカー選手のサイクルがはやくなっていることを十分に理解し、国を上げて「言語教育」や「異文化理解教育」を行っていかなければ、これまでのように「言葉が話せるようになるまで待ってくれる」ことがなくなったり、仮に異文化を理解することできない選手が増えた場合、日本人選手の欧州における価値は年々落ちていくことになります。欧州における価値を日本人選手の価値を保つ(あげる)ことは「競技としての価値」および「商業としての価値」の両面において大きなポイントになります。
■外国を一括りにしない
ヨーロッパ内においても、全く異なる特徴を持っている国があります。私たちは「外国は外国」と括るのではなく、各国ごとに特徴を洗い出し、対策や戦略を常に練っておくことが必要です。そしてその情報をクラブ、組織、選手が触れられるようにしておかなければなりません。言語、文化、地理的に欧州各国や南米諸国と離れている日本にとって、これらを行うシステムを構築することは、最低限の行いではないでしょうか。
そのために、すでに既存の存在として海外に出てサッカーを学んでいる指導者や、プレーをしている選手たちから「情報をリアルタイムで日本に集める仕組み」を作ることは、リーダーシップがあれば協会が担うことができます。現状多くの日本人が海外に出ているにも関わらず、それが有効に活用されることはありません。これらの損失も、劇的に減らしていかなければなりません。
海外に行ったことのある日本人だけがグローバルスケールで物事を考えることができる状況では、日本サッカーも、日本全体を見ても、非常に苦しくなっていきます。
■これからのサッカー指導者
これら全ての主張は『指導者養成』というテーマに繋がっていきます。これからの時代を担うサッカー指導者は、どのような存在でなければならず、またそれを育てていくには、どのような仕組みを作り、どのような仕組みを捨てなければならないのでしょうか。
現在の仕組みでは、あらゆる構造的問題によって育つものも育たなくなってしまっています。次回はその辺の解説も含めて、主張をしていきたいと思います。
私たち日本サッカーは、これからの人口減少時代において、特別な準備や対策をする必要はないのでしょうか?この時代を乗り越えるために舵を取らなければならないのは、今の若い人間です。
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河内一馬
1992年生まれ(27歳)/ 東京都出身 / アルゼンチン在住 / サッカーを"非"科学的視点から思考する『芸術としてのサッカー論』筆者 / 監督養成学校在籍中(南米サッカー協会 現Bライセンス保持) / NPO love.fútbol Japan 理事
【人口減少をテーマに書いた記事】
▼Vol.1
▼Vol.2
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