今時の若いやつは
「今時の若いやつは・・・」と、今時のおじさんはよく言う。
世の中が目まぐるしく変化を遂げていく現代において、「過去の若者」と「現在の若者」に違いがあるのは当然だが、それと同じように「昔は良かった…」と、昔と今を比較してしまうのもまた当然のことで、きっと、どこの国のどこの時代の「今時の若いやつ」も、同じことを言われて育てられてきたに違いない。これからも世の中からこの言葉が消えることはないだろう。
ところで、サッカーにおける「今時の若いやつ」は、一体何を考えて、何を思ってサッカーをしているのだろうか。日本サッカーの「今時の若いやつ」は、どのような変化を経て今に至るのだろうか。
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激動の幕開け
僕らが生まれた1年後、日本にはJリーグが誕生した。物心がついた頃には「サッカー選手」が存在していて、サッカーは当たり前のように人気のスポーツになっていた。例に漏れず、僕もサッカーの虜になったわけだけど、父には毎日『俺たちの時代は野球。サッカーをやっているやつなんていなかった』と言われ続けた。こんなに面白いスポーツをやっていないなんて、どうかしてる。
よく言われるように、日本サッカーはJリーグの発足を機に世界でも類を見ない早さで成長を遂げ、ワールドカップの常連になることに成功した。ジーコやドゥンガをはじめとした世界各国の一流プレーヤーがJリーグに名を連ね、プラジルから帰国したキングカズが花を添えた。今思うと、僕らが生まれた1992年は、これから始まる日本サッカーの「激動の幕開け」だったのかもしれない。
サッカーとお金
僕らがまだ小さい頃、今とは違ってサッカーをするのにお金はかからなかった。「ボールひとつあれば」公園や空き地で、時には駐車場でサッカーが出来たし、道端でボールを蹴って通行人に当たってもギリギリ許された。サッカーに人気が出てきた時代だったから、世の中もサッカー馬鹿に少々寛容だったのかもしれない。
僕が毎日(本当に毎日)サッカーをしていた公園の横には、大きな庭付きの豪邸があった。そこのオヤジがまた厄介で、ボールが中に入るとなかなか返してくれない。その上怒鳴りつけられるわけだから、僕らはついにそこでサッカーをするのをやめた。わけもなく、出来るだけ優しいおばさんの方がいる時間帯を調査して、万が一ボールが入ってしまった時には少しでも誠意が伝わるように、全員で「申し訳なさそうな顔」をした。僕がボールをフカさないように蹴れるようになったのはあの怖いオヤジのおかげだし、「申し訳なさそうな顔」を覚えたのも、ボールはどこに転がるかわからないから注意深くプレーしなければならないことを覚えたのも、すべてあの公園だった。僕らにとって、どんな困難が待ち受けていようとも、サッカーというのは「どうしてもやりたいもの」だったのだ。
事情が変わったのは、僕らが成長して中学生を過ぎた頃だっただろうか。日本中の公園に「ボール使用禁止」の看板が立てられ、道端でサッカーをすると怒られるようになった。日本サッカーが激動の幕開けをして間もなく、僕らの成長とともに、「ボールひとつあれば」サッカーができる時代はあっけなく終わってしまったのだ。僕らよりもさらに「今時の若いやつ」は、サッカーをするのに何かとお金がかかってくる。
フットボール禁止令
「殴られて」育てられた時代から、僕らのような「走らされて」育てられた時代を経て、今時の若いやつは「お金をかけて」育てられている。サッカーというスポーツがなぜ世界で最も人気のあるスポーツなのかと問われれば、「ボールひとつあれば」誰でも楽しむことができることが挙げられるが、今時の若いやつにもしそれを言ったら、
「え?月謝の5,000円と、グランド使用料の2,000円は?」
とかなんとか言われてしまうだろう。今時の若いやつがサッカーをしようと思ったら、どこかのサッカークラブにお金を払って属し、どこの誰だかもわからない「コーチ」と呼ばれる大人にサッカーを「やらされ」、そうでなければ学校の授業でサッカーを「やらされ」る。彼らにとってサッカーは、誰かの言う通りに、一定の時間の中で「やらなければならないもの」となってしまったのだ。
果たしてこれは、日本だけに起こっている問題なのだろうか。僕がヨーロッパ中を旅した時、そこには「お金をかけず」に、なおかつ「自分の意思で」サッカーをする子供や青年(時に大の大人)が確かに存在した。では一体、日本との違いはなんなのだろうか。そもそも海外には「ボール使用禁止」なる看板はどこにも立てられていなくて、なおかつ道端でサッカーをして怒るような“今時の”おじさんがいないのだけなのだろうか?
…それが、そうでもなさそうなのである。
サッカーを迷惑がるオヤジ
30代前後の海外サッカー選手がインタビューを受けると、必ずと言っていいほど口にするのが「ストリートサッカー」の重要性と、その文化が消えつつある現状への危機感であるし、日本語に翻訳された海外の本を読んでいると、「今時の若いやつは…」という意味の言葉を、サッカーに限らず多くの本で目にすることになる。そう考えると、このお決まりのセリフも、そして道端でサッカーをすることを迷惑がるおじさんも、どこの国にも存在しているのかもしれないと思えてくる。
日本でスタイリストをする、リバプール出身トニー・クロスビーの著書『英国紳士のおならとゲップ』にはこう書かれている。
スリー・アンド・イン(イギリスの子供達が行うサッカーの遊び。全員が同じゴールにシュートを打ち、3点入ったらキーパーが交代するというシンプルなもの)はオレたちにとって最高の遊びだった。だけど狭い路地で子供たちが大騒ぎするんだから、近所に迷惑しているオヤジがいても不思議はない。(中略)ミスター・ガウンズの愛車は真っ白でけっこう高級だったと思う。だけど気がつけばいつも思い切りボールの跡がついていたから、今考えれば、お怒りもごもっともだったわけだけどな。
これを見れば、少なくとも著者が「今時の若いやつ」だった70年代のイギリスでも、同じように“この類の”オヤジは存在していたことがわかり、「ボール使用禁止」なる看板が立てられていてもおかしくない。
さらに時を遡ってみると、サッカーの原点にまでたどり着いた。近代サッカーの原点は、イギリスで行われていた一種の「行事」であると言われているが、それについて詳しく書かれている『オフサイドはなぜ反則か』著 中村敏雄には、大変興味深いことが書かれている。
「フットボール」という言葉が記録されているもっとも古い文章は、1314年、当時のロンドン市長が公布した「フットボール禁止令」だというのだ。ここには、こう書かれている。
公共の広場で多くの人びとがフットボールを行うことによって発生する大騒ぎが、神がお許しにならない多くの悪徳をはびこらせるがゆえに、私は国王にかわってこれを禁じ、以後、市中においてこれを行ったものを投獄する
驚くべきことに、1847年までの間、残されているだけでも42回もの「フットボール禁止令」が布告されているというのだ。つまり、はるか昔、まだサッカーがサッカーたるものになっていなかった時代にも、サッカーを迷惑がる“今時”のおじさんは存在していたのだ。
どうしてもやりたいもの
僕の近所のおじさんから、700年前のロンドン市長まで話が広がってしまったが、ここからわかることは、サッカーというスポーツが生まれるはるか昔の時代から現在に至るまで、世界中でサッカーを楽しむ「今時の若いやつ」が絶えずいて、それを迷惑がる“今時の”おじさんが絶えずいて、それでもなお、700年前のイギリスでも、50年前のイギリスでも、「今時の若いやつ」はそれに屈せずサッカーをやり続けたという事実だ。僕の子供時代と同じように、いつの時代もサッカーというのは「やらされるもの」ではなく、「どうしてもやりたいもの」なのだから、どんな困難が待ち受けようとも、誰に禁止されようとも、サッカーをするのだ。
日本で「ボールひとつあれば」サッカーができる時代を終わらせてしまった戦犯は、「ボール使用禁止」の看板を立てたおじさんではなく、それを易々と受け入れてしまった「今時の若いやつ」なのかもしれない。もし700年前の「今時の若いやつ」が「フットボール禁止令」を受け入れていたら、今この世の中にサッカーというスポーツは存在していないのだから。
僕らの使命
いつの時代も、やるなと言われても「どうしてもやりたい」人間が「何か」を創ってきた。いつだって「何か」を創ってきたのは今時のおじさんではなく、「今時の若いやつ」なのだ。路上ライブを警察に止められたミュージシャンが、歌うことをやめるだろうか?どうしても歌いたいから、どうしても売れたいから、また歌うのだ。サッカーというスポーツは、お金をかけて誰かに「やらされる」ものではなく、ボールひとつあれば、公園で、空き地で、道端で、路上で楽しめるものなのだと、僕らは「今時の若いやつ」に伝えていく必要がある。それはボールの蹴り方を教えるよりも、最新の練習方法を教えるよりも10倍大切なことなのかもしれない。「お金をかけて」育てられた世代の次に、「ロボットに」育てられた世代、なんてものが来る前に…。
たとえボールを蹴ることを禁止されていようが、強面のオヤジが見張ってようが、君たちはサッカーをすることをやめてはいけない。そう伝え続けることが、僕らの使命なのである。
ただ、僕がこう言っていたことは、今時のおじさんたちには絶対に言わないでほしい。特に、強面のオヤジには。
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※この記事は、SHUKYU Magazine issue 4『YOUTH』にて寄稿させていたものに、加筆修正を加えたものです。なお、文中の写真は全て筆者撮影。
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