一神教を信仰しないことがサッカーに与える影響
【宗教/言語編】 外国人を日本に招くことがサッカー界の発展に繋がらないと断言できる「8」の根拠
※ 私はこの記事の中で、また『芸術としてのサッカー論』の中で、日本人の文化的特徴がサッカーという競技(勝ち負けのあるサッカー)にどうマイナスの影響を与えているか、また日本サッカーに関わる人々がいかにそれを曖昧にしているのか、について触れることが多くなります。芸術と文化は切っても切れない存在ですので、「芸術としてのサッカー」を考える上では非常に重要な要素になります。"ただし"決してそれは「諦めた」という状態ではなく、むしろそれの対局に位置する考えを持っています。日本人の文化的特徴がどのようにサッカーというスポーツにおいてマイナスに働いているのかを「明確に(正確に)」理解すれば、対応策が見えてきます。それをTR単位で、試合単位で、チーム単位で変えていくことは全くもって不可能なことだとは思いません。日本人が日本人としてそれを理解し、消化し、もうこれ以上「日本人にはサッカーが合わない」と嘆くのは終わりにしなければなりません。
▼前編はこちら
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根拠⑤:宗教と言語
ここで一度、監督人事の話を離れて、よりサッカーの本質的な部分まで掘り下げていきます。私ごときが宗教について触れるのは非常に気が引けますが、あくまでサッカーと向き合う上での見解であり、私の「捉え方」です。
■なぜ宗教は存在するのか?
「宗教とは、人びとが、同じように考え、同じように行動するための、装置である」
『世界は四大文明でできている』橋爪大三郎 より
私は「サッカーと宗教を切り離して考えることは不可能である」と今後主張していきますが、わかりやすい理由の1つがこれです。サッカーという、22人もの選手が自由に配置された極めて自由度の高い競技の中では、いかに「11人が同じように考え、同じように行動するか」が重要になってきます。表面上サッカーにおいては「戦略」と「戦術」がその役割を果たすわけですが、人間の根深い部分には「宗教」という行動指針が関係していると、私は主張します。
■日本人は少数である
世界は主に以下の4つの文明で構成されています。
①キリスト教文明:キリスト教(ヨーロッパ中心) 約25億人
②イスラム文明:イスラム教(中東/東南アジア中心)約15億人
③ヒンドゥー文明:ヒンドゥー教 (インド)約10億人
④儒教文明:儒教 (中国) 約13億人
これらの宗教をベースとした4つの文明の人口を足すと、63億人になります。現在の世界人口が73億人だとすると、残りの10億人は「その他」であるということ、そして日本人はそのうちの1億人である、ということです。私はサッカーを考えるときに限らず、この「日本人は少数である」という事実をしっかりと理解する必要があると考えます。
現代の日本人は「少数である」という大前提を持たずに選択をしているが故に、国際社会において多くの失敗を犯しています。残念ながら、日本サッカーはその典型です。
■日本人と宗教
ほとんどの日本人は特定の宗教を持ちません。かく言う私も宗教に対して強い信仰を持っているわけではないので、例えば「祈る」という行為が何を意味をするのか、宗教とは何か、肌感覚で理解をすることは非常に難しいと思っています。
私はまず、「サッカーと宗教を切り離して考えることは不可能である」という自分の感覚を確かめるために、次の仮説を立てました。
そして、影響しているとすれば、なぜなのか?どのように影響を与えているのか?ここから書くことは、この仮説に基き、これまで私が思考してきた現時点での答えと、その過程です。
■サッカー強豪国との関連性
世界のサッカーをリードしている欧米と南米。そのどちらも「キリスト教」という宗教が深く関係しているのは偶然なのか、それとも何かしらの関連性があるのかを検証する必要があります。まず、過去のW杯優勝国における、国民にもっとも根付いている「宗教」の一覧が以下の通りです。
プロテスタントとカトリックの違いや、その他信仰心の強弱などの差異はありますが、サッカーとの関連性を検証するには必要のない知識ですので割愛します。まず第一に、サッカーで頂点を取ってきた国々の全てに「キリスト教」と深い関連性があるという事実は、間違いなさそうです。
ただ、当たり前と言われれば当たり前の話でもあります。たまたまサッカーの強い欧米と南米がキリスト教を多く信仰しているとも言えますし、そもそも世界的にキリスト教が多くの人口を占めています。これだけでは「サッカーと宗教を切り離して考えることは不可能である」と主張する根拠にはなりません。
もう少し掘り下げていきます。キリスト教はサッカーに強いのか?もしそうなら、なぜなのか?
■宗教を持たないこととは?
第一に「特定の宗教を信仰しないことが、サッカーという競技に影響を与えているのではないか?」という仮説を確かめるために、私たち日本人のことを考える必要があります。
私は「宗教を持たない=正典が存在しない」という解釈をしています。前述した、世界で大きな割合を占める4つの文明(宗教)には、例外なくそれぞれに「正典」というものが存在しています。
キリスト教:聖書
イスラム教:コーラン(クルアーン)
ヒンドゥー教:ヴェーダ
儒教:五経
この4つの宗教が、世界人口の73億人のうち63億人だということは前述しました。つまり、世界のほとんどの人間には「正典」の存在があり、私たちのように正典がない人間は「稀である」ということです。
■正典の役割
正典とはラテン語で「カノン(基準となるテキスト)」という意味を持ちます。聖書をイメージしてもらえればわかると思いますが、「人間はこのように行動し、こう生きるのが正しい」という「神」が決めた生きる指標です。2000年前、3000年前に文字として書き下ろされた「生きる指標」が、今も変わらず現代人の生きる指標となっているのです。私たち日本人には理解が出来ないことかもしれませんが、世界的にはこれが普通であるということを忘れてはいけません。
この「正典」の存在は、サッカーという競技にも深く関係があると、私は考えます。なぜならそれは、普遍的かつ永続的なものだからです。
■欧米と南米とアフリカの関係性
前述しているように、世界は4つの文明(宗教)が大半を占めていて、尚且つサッカーの中心(世界の中心)はキリスト教であること。そして、宗教というものは「国や民族や文化や言語を越えて」普遍的な内容であるということ、を理解してください。
文字の特性とは、いちど書いたら変化しないこと。(中略)それが永遠に続くから、そう考えてそう行動する。だから時代を超えて同じように行動する人々の集団をつくることができる。
『世界は四大文明でできている』橋爪大三郎 より
これはまずい、と日本人は思わなければなりません。なぜなら私たち日本サッカーが追いかけている欧米や南米は、同じ「正典」という基準を持っている。つまり、世界のサッカーの中心である欧米や南米は同じ価値観のもと生きている(行動している)ということです。さらに言えば、欧米や南米で多くの選手が活躍するアフリカ人も、キリスト教とイスラム教が多くを占めます。なおかつスペイン語や英語(ラテン語)等の「言語」という共通のツールも持っている。当然、彼らは「協力」しやすい。生活も、ビジネスも、もちろんサッカーも。
■日本がなぜ危機的状況なのか
そして、悪い状況を加速させているのが、私たち日本人は世界人口のほとんどを占める4つの文明(宗教)について理解しようとせず、教育を行わず、何より「日本人が日本人のことを"全く"理解していない」ということです。
日本サッカーにおいては、サッカーの中心である「キリスト教」、または「イスラム教」(この2つの関連性については後述します)について、あたかもそれが「ないような」行動をとっていること、例えば代表監督に外国人を招くことがこれの典型的な行動です。日本人として「芸術としてのサッカー」を思考することから逃げ、欧米の戦術論やテクノロジー「科学としてのサッカー」を表面上追い求めることで、"必ず"選択を誤ります。コーチ(やその他のスタッフ)と違い「監督という職業はサイエンスよりもアートがより重要」になってくるからです。つまり、日本という特殊な人種の「舵を取る立場」の人間が外国人だった場合、どうなるのかを考えなければならないのです。
■人間が団結するには何が必要か
今回のハリルホジッチ監督の解任劇は、典型的な例です。
人間が団結をするには、共通の「宗教(価値観)」または「言語」を持っていなければなりません。欧米や南米やアフリカは、それらがすでに存在している状況である上に、優秀なサッカー監督は自チームに共通の"宗教"や"言語"を作り出します。
私たちは、欧米や南米やアフリカと競争をするために、もしくは共存をするために、彼らよりも"深く"彼らのことを理解しなければなりません。今回の騒動で「コミュニケーション不足」という言葉が頻繁に使われていましたが、「コミュニケーション」という言葉は「しようと思えば出来るだろう」という印象を与えます。しかし、それほど単純な問題ではありません。
「科学としてのサッカー」を追い求めてしまうことで「サイエンスの知識が上回っている監督であれば成功する」という致命的な間違いを犯していることに日本サッカーは気付いていません。「この監督はヨーロッパで結果を出してきた」「この監督は日本人より知識がある」という基準で選択をしてしまうと、必ず選択を謝ります。サッカーは「知識」ではなく「表現」です。少数民族の長を、他民族の人間に任せるでしょうか?世界では「少数」でしかいない日本人である私たちは「他国にはない問題」を抱えているのです。
■サッカー選手における宗教
ピッチでサッカー選手が「祈る」という姿は珍しい光景ではありません。なぜ彼らは「祈る」のでしょうか?彼らの気持ちは、私たち日本人が理解することは非常に難しいです。
メスト・エジルと、モハメド・サラーはイスラム教徒です。彼らは試合直前や得点後などに「祈る」ことで知られていますが、それらはどんな役割を果たしているのでしょうか?サッカーにおいてどのような影響をしてくるのか?ピッチで「祈る」、もしくは「十字を切る」外国人と、それらをしない日本人は、何が違うのか。そしてそれはサッカーという競技にどんな影響を与えているのか。
■キリスト教とイスラム教の共通点
世界で二番目に多い「イスラム教」と「キリスト教」の共通点は「一神教」であるということです。この2つに「ユダヤ教」を加えて大きく3つの一神教が存在していますが、それら3つの宗教は「同じ神」を信仰しています。それぞれの信じ方が違うことによって宗教が分かれていますが、基本的な考え方としては、その名の通りこの世に神は1(人)しかいないというものです。神が全てを創造し、全ては神が決めることであり、人間は神のしもべである、という基本的な考え方が根底にあります。つまり、彼らの「信じる対象」は何があっても"揺るがない"のです。
■根拠のない自信の正体
極めて自由度の高い、かつ偶然性(何が起こるかわからない状況)が多いサッカーという競技においては、「揺るがない自信」というものが非常に重要な意味を持つと私は考えています。それは時に「根拠のない自信」と表現されますが、ピッチで戦った経験のある人間であれば「自信のある状態」と「自信のない状態」では全くパフォーマンスが異なることを知っていると思います。では、その正体は一体何なのでしょうか?
一神教の基本から、導かれる命題は、人間に価値があるかどうかを、神が決めるということ。人間は、その人に価値があると神が思えば、価値がある、なのです。だから、神が自分を支えている、と思っている人間は、自信たっぷりになる。(中略)それは、目の前にいる人間に、左右されない、ということです。
『世界は四大文明でできている』橋爪大三郎 より
世界の舞台で戦う外国人(サッカー選手)は、私たち日本人とは明らかに違う雰囲気があります。いかなる場面でも堂々としているあの姿は、我々日本人とは一線を画します。そこに私はこの「一神教」という決して揺らぐことのない「自信」が深く関係していると考えています。彼らは神に「祈る」。相手が誰であれ、どういう状況であれ、私の価値を決めるのは「神」である、という考え方が根底にある。キリスト教においては、信仰心の強弱が、人によって振り幅が大きいと言われていますが、たとえ信仰心が薄かったとしても、必ずこの「目の前の人間に左右されない」という考え方は根底に持っています。
■自信の根拠が「練習量」だった場合
「私は自信を持っている。なぜなら"練習量"を誰よりもこなしてきたからだ」
彼は試合の状況が悪くなるにつれて、次第に練習量は今この状況には全く関係のないことだ、と気付き始めるでしょう。もしかしたら相手の方が自分たちよりも練習をしているのではないか?と疑いを持ち始めるかもしれません。その上、練習では起こらなかった状況が目の前に現れた時、硬直してしまう可能性があります。
■自信の根拠が「相手よりもうまい(強い)」の場合
「私は自信を持っている。なぜなら"相手よりもうまい(強い)"からだ」
この根拠は、例えば世界のトップトップを走る選手であれば問題ないのかもしれません。実際にトップトップの選手はこのような自信を持っていることかと思います。しかし、試合が開始され、少しでも自分の想像よりも相手が「うまい(強い)」と感じた瞬間に、その自信は一瞬にして崩れ去るでしょう。この自信は、自チームよりも能力の低い相手にのみ、または試合中の「良い状況」のみ保つことが出来ます。
■自信の根拠が「科学(サイエンス)」だった場合
「私は自信を持っている。なぜなら"相手よりもサッカーを知っている"からだ」
例えば「戦術・戦略的に勝る」や「(データとして)個が勝る」というサイエンスに基づいた自信を持っているとします。ある意味もっとも「根拠」がはっきりしているパターンです。しかし、この欠点は、自分たちよりも勝る相手、つまり日本人においては国際試合で強豪国と対戦をする際に「自信を持つことが不可能」になることです。なぜなら、サイエンスとは言語化されたものであり、再現性があり、数字で表せるものですから、日本人はそれらが欧米や南米に敵わないことことを「知ってしまって」います。情報社会になってしまった欠点です。
Jリーグで躍動している選手が国際試合で萎縮する理由がこれであり、強豪クラブで活躍する日本人が日本代表で実力を発揮できない理由がこれです。
■揺るがない自信をいかに持つか
では、私たち日本人は、世界と戦っていくに当たってどのように「揺るがない自信」を持てば良いのでしょうか?まさか、今からキリスト教徒になれるわけでもありません。それとも、そもそもサッカーにおいて、勝つため(良いプレーをするため)にそんなものは必要ないと考えるべきでしょうか?
まず大事な点は、私がこの記事の中で書いてきた全ては「日本人でなければ絶対に追求できない分野」であることです。私たちの「芸術としてのサッカー」は、私たち日本人が追求していかなければならない。逆説的ですが、そのためには日本人は外国人から学ぶ必要があり、学び方を間違えてしまってはいけない。日本人はまず、日本人を理解しなければなりません。
浮世絵という芸術は、日本人にしか表現の出来なかったものです。
■教育と歴史の重要性
これらの問題を解決する方法として大事な点は以下の2つです。
①教育をする:記事に書いたような事実を知っているのか、知っていないのか、で外国人と対峙した時に雲泥の差が出ます。得体の知れない相手と戦うことは非常に難しいことですが、相手よりも相手を理解することで解決策が見えてきます。日本全体の教育を変えることは難しいですが、「日本がやらないなら日本サッカーが独自でやる」という姿勢は、これら教育に関しても、語学に関しても、今後非常に重要な考え方になると思っています。
②日本の歴史を参考にする:では、私たち日本人は今まで「正典」という共通の文書を持たずに、また絶対的な「神」という存在をなしにして、いかに歴史を重ねてきたのでしょうか?私はそこに学ぶ余地があると考えます。
■信じるものがあるかないか
「くに(故郷)の家の茂平沢(佐々木さんの地元)に祀られている、先祖の霊。先祖は見たこともないし、会ったこともないし。なんだけど。なんかに支えられてすがっていきたいという」—— 毎日、お祈りしたとか、お念仏唱えたりとかしたんですか?「いやあ、そんな別に声に出して言うわけじゃない、心の中で『それじゃあ、おとっつぁん、行ってくるよ』っていうようなもんですよ」
『不死身の特攻兵 軍神はなぜ上官に反抗したのか』鴻上尚史 より
良いか悪いかは別として、私たち現代の日本人とっては「ご先祖様」という発想も、少しずつ薄れていきます。戦時の文献の多くには、当時の日本人は「ご先祖」や「日本が歩んできた道」に誇りを持っていたことが表現されています。人生も、サッカーも、自らの選択を迫られる状況において、「信じるものがあるかないか」は非常に重要な意味を持ちます。現代の日本人は、それを自らつくっていかなければならない。何を信じて生きていくのか。何を信じてサッカーをするのか。何のために勝つのか。なぜ、勝たなければならないのか。選択が絞られていた時代は終わり、今の日本人は無限の可能性を秘めている上に、情報が溢れています。
信じるものがないが故に、迷いの中から抜け出せないという問題は、これからの時代が進むにつれて日本人の若者が抱える、大きな問題になることでしょう。
■口で、態度で、後世に伝える
私たちは、文字にされた「生きる基準」がないからこそ、代々の「大人」が、下の世代に向けて、口で、態度で、伝えてくことをしてこなければなりませんでした。だからこそ私たち日本人は、親を敬い、歳上を敬う文化が確立していたのではないでしょうか。しかし、現代はどうでしょうか。子を教育出来る親は減り、生き方を示せる教師は減り、私たちのように、大人が育てた「ゆとり世代」をその大人達が攻める時代です。最近では欧米や南米の表面を見て礼儀を教えない(教えられない)日本人(サッカー指導者)が増えていますが、それは非常に危険なことです。
日本人の子供は、大人に言われたことを無条件に受け入れてしまうという特性を持っていますが、その特性は「正典がない→大人のことを言うことを聞かなければならない」という日本人が築いてきた特有のプロセスに起因すると私は考えています。そんな日本人は、他国よりも「大人の責任」が非常に重いのです。
これらの背景を考えると、日本サッカーは何よりも先に、すべての力を合わせて「監督養成・指導者養成」を、行っていかなければならないことがわかります。選手は勝手に育ちますが、指導者は勝手に育ちません。
■揺るがない歴史=揺るがない自信
私たち日本サッカーは、サッカーと向き合う際に「積み上げてきた歴史」に自信を持つことが重要なのかもしれません。神と同様に「歴史」は揺るがないものになります。
このまま日本サッカーを外国人に委ねたり、質の良い指導者(大人)が育たなければ、私たちは一向に日本サッカーの歴史に誇りを持つことが出来ません。日本人が自ら海外に学びに行き、すべての力を結集して、1試合1試合強豪国に挑む。その「1試合」の繰り返しです。
「〇〇に勝った」という結果に対しての歴史はすぐに揺らぎますが、「歩んできた道」や「プロセス」は揺らぐことがありません。私はそこに、日本人が唯一持つことができる「揺るがない自信」の可能性を感じます。
■他国のサッカーには存在しない問題
ここまで、宗教から派生する「日本サッカーが抱える他国には存在しない問題」について書いてきました。ここから「外国人を日本に招くことがサッカー界の発展に繋がらない根拠」というテーマに話を戻していきます。
上記しているように、日本人と外国人の間には「コミュニケーション」という領域を越えた非常に根深い問題があります。ただ、これを原因に世界で戦うことを諦めるのはおかしな話です。解決策を提示する前に、何が問題なのかを整理します。
①日本人であることを度外視した選択
欧米や南米は同じ「正典」を基準に生きていて、「言語」という共通のツールも持っている(持ちやすい)。なおかつサッカーにおいて日本人とは違う「自信」の持ち方をしています。日本人は彼らと共通するものがないため、当然協力(団結)をすることは難しいのですが、それを解決するための教育や対策を行っておらず、あたかもそれが「ないような」行動をとっている。もっともそれは、日本人が日本人を理解していないことに起因し、現代のグローバル社会(現代サッカー)においては致命的な状況です。
②日本人の"空気"を共有できない
世界のほとんどの人間が「宗教」や「正典」などで普遍的な価値観の共有をしてきたわけですが、日本にはそれがない。では何がその役割を果たしているのか。
日本人がどのように日本人同士の行動を理解し、また予測し、共同作業をしているのかというと、そこには「空気」の存在があります。日本人の「空気」についてはここで触れる事ができるほど単純な問題ではないですが、これまでの歴史から見ても、また自分が日本人を学んできた経験から見ても、日本人にとって「空気」という存在の影響力は多大なものがあります。私たちの意思表示や意思決定の間には「わかるでしょ?」「普通そうだよね?」という日本人共通の「私たちにしか感じることの出来ない空気」が深く関わっています。
ハリルホジッチさんの記事から、「空気」が原因で発生している問題の例を出します。
※ここで今一度確認ですが、私はハリルホジッチ監督を批判しているわけではありません。むしろ擁護してると言っても過言ではありません。
「西野氏との直接的なやりとりは多くなかった。彼は私たちの練習を見守り、自身のための記録帳を用意していた。そしてコーチ陣との会議に出席していた。」
これは日本人的な"コミュニケーション"の取り方の良い例で、「あなたから学んでいますよ」ということを「近くにいる」という方法で伝えようとしています。しかし、外国人は「コミュニケーションがなかった」という捉え方をします。そもそも日本人と外国人では「コミュニケーション」の定義が異なります。
——W杯出場を決めた後、昨年11月、12月、今年3月に強化試合が行われた。試合では本大会のためのプランを披露せずにいたと思うが、具体的なプランを選手たちや協会スタッフ、技術委員会、会長らには伝えていたのか?「話していない。誰からも問われることはなかったし、誰からも求められなかった。」
「同じ代表スタッフなのだから普通伝えるでしょ?」という日本人の「空気」を出していたのだと思いますが、それは外国人には伝わりません。聞かれなければ、答えません。
「なぜ、会長にしても西野さんにしても、『ハリル、問題があるぞ』と一度として言ってくれなかったのか。本当に一度として。何かあっても誰も何も言わなかった。」
恐らく、日本人としての「空気」を充満させ、"伝えていた"のだと思います。何度も言うようですが、それらの「空気」は日本人以外に伝わることはありません。当然ですが、これは「スタッフと監督」だけではなく「監督と選手」の間でも発生する問題であり、ハリルホジッチ監督は一連の中で「コミュニケーションの問題はなかった」と頻繁に発言をしていますが、もしかすると(真実はわかりません)、本当に選手間との致命的な「コミュニケーションの問題(日本人的)」が発生していたのかもしれません。ただそれは、選手も同様に「空気」で伝えようとするわけですから、ハリルホジッチ監督にはわかり得ないものなのです。つまり"気付いていなかった"可能性があります。
「そして、そこで話が来たわけです、『一人の選手があまりいい状態ではない』と。私は『わかっています。そのことについては、あとで解決できますから』と言ったんです。残念ながら、そこでいろんなことが起こって、会長がたくさんの選手やコーチと連絡を取った。そして私とともにいたのがジャッキーとか、シリルとか、GKコーチとか……何が起こったのかということはジャッキーというコーチにも説明がなかった。私にとってもそれはびっくりしたことでもあり、また、コーチたちにとってもびっくりすることだった。」
私は、ゲーム中における「監督の表情」や「監督のジェスチャー」を自分なりに研究していますが、ハリルホジッチ監督は、テクニカルエリアでよくこのような表情をしていました。「?」の表情です。
私の記憶が正しければEAFF E-1フットボールチャンピオンシップ2017(東アジアカップ) で最も多くこの表情をしていました。韓国に大敗をした大会です。
日本人が集まった日本代表では、当然ピッチ上でも「日本人の空気」が蔓延します。それはサッカーにおいてマイナスの効果を発揮しますが、それらは外国人に「?」を発生させます。「どうしてもっと自信を持たないんだ?」と言われても「う〜ん」としか答えられない理由は前述している通りです。「なぜ戦わないんだ?」と言われても「う〜ん」としか答えられない。ハリルホジッチ監督にとっては、「韓国」というライバル相手に気持ちが表に出てこない選手たちに対して、「なぜ?」というリアクションが発生してしまうのです。
③日本語の特殊性
たとえ宗教があれど、国々には各文化が存在していて、それぞれの国で微妙な相違点があります。それを解決する手段が「言語」です。つまり、話をして解決をする意外方法はありません。
しかし、幸か不幸か私たちが用いる「日本語」は日本人しか話していません。英語とスペイン語を学んでみて思うことは、日本語という言語がいかに難しいニュアンスを含んでいるのか、ということです。外国人が習得するには非常に時間がかかる言語で、ネイティブのニュアンスを理解するのは膨大な時間を有します。例えばスペイン人がイングランドに行って監督をするのとは訳が違います。サッカーで日本にきた外国人監督が完璧に日本語を習得した例は恐らく一度もありません。
つまり、私たちがこの「宗教」や文化の違いを解決し、欧米や南米と競争をする、もしくは共存をするには「言語」という手段しかない訳ですが、私たちにはその「言語」すら共通のものを持っていないという自覚がなければなりません。「外国人が日本語を学ぶ」よりも「日本人が外国語を学ぶ」方がはるかにハードルが低いですが、日本サッカーはそこに貪欲になっていません。「日本が教育を行わないのなら日本サッカーが独自で」行う必要があります。
※ここで「通訳」というテーマが出てくる訳ですが、そこについては【後編】にて言及します
■日本人の舵取りは日本人のみ成し得る
以上の理由により、日本人の舵を取ることは、日本人にしか「ほぼ」成し得ないと私は考えます。これらのことを度外視して日本サッカーは外国人に舵を取らせようとする為、必ず選択を謝ります。ただ、「ほぼ」と書いた訳は、いくつか条件を満たし、日本人が外国人に舵を取らせる為の対策を行っているのであれば、成功する可能性はあります(長期的な成功かといえばまた別の話です)。その「対策」については【後編】で触れていきますが、つまりそれらの対策をしていないことが、「外国人を日本に招くことがサッカー界の発展に繋がらないと断言できる根拠」のうちの一つとなります。
こと代表監督に関しては、クラブの監督と違って選手やスタッフと接する時間が短いことや、クラブの監督以上に「サイエンス」よりも「アート」が重要になってくる為、外国人が舵を取ることは非常に、非常に難しいでしょう。
■サイエンスを外国人に委ねるという選択
現時点では、サッカーの「科学(サイエンス)」は圧倒的に欧州が先を走っています。その欧州のサイエンスを取り入る為に、アートよりもサイエンスが重要になる「コーチ」やその他スタッフに外国人を起用することは正しい判断かと思います…と言いたいところですが、その場合最低限、監督は外国語で会話できることや、サイエンスを日本人として消化して表現する能力が求められますので、日本人の「芸術としてのサッカー」を理解している監督である必要があります。
「現時点」では、監督に日本人を据え、サイエンスの勝る優秀な外国人コーチで脇を固めるという方法はベストなのかもしれませんが、それには上記したような「日本人の芸術性」を理解していることや、「異文化」を理解している監督であることが最低条件で、日本はそのような教育(例えばライセンス講座で異文化理解力の教育する)を行っていない、という日本サッカー最大のジレンマがあります。
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続く▼
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