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影の檻
陽一は年老いた母と二人、静かに暮らしていた。母は専業主婦として長年家を守ってきたが、今では体も衰え、陽一と二人きりで家の中にひっそりと過ごしている。陽一にとって、この静かな日常こそが自分を支えるすべてだった。
そんなある日、遠くに住む姉・理恵が、何年ぶりかに連絡をしてきた。「お母さんに何かしてないでしょうね?」という理恵の声が、不穏な響きを帯びていることに、陽一は不安を覚えた。理恵は、すぐに周囲に「母が監禁されている」「弟が母を虐待している」と言いふらし始め、さらには警察や親戚、職場にまで連絡して、陽一の噂が広まっていった。
理恵の言葉は、親戚や警察、職場の人間までも信じ込ませ、ある夜には親戚が突然家に怒鳴り込んできた。陽一は母を守ろうと必死で弁解し、ようやく彼らを帰らせることができたが、その後も職場での陰口や冷たい視線が消えることはなかった。毎日、出勤するたびに「理恵の言葉」がひそひそと耳元で囁かれるような気がして、陽一はついに会社を辞める決意をした。
やがて、母が高齢者施設に入ることになり、陽一は一人、静まり返った家に取り残された。母がいなくなった後の家はどこか冷たく、まるでその中に閉じ込められているように感じられた。何度も頭を振って振り払おうとするが、夜になると理恵の声がどこからともなく聞こえてくる気がして、息苦しさが胸を締めつける。
「お前が母を追い詰めたんだ」「お前のせいで母はあんなふうになった」──理恵の声が頭の中で響き渡り、家中に彼女の影が染み付いているように感じることに気づいた。
ある晩、陽一は鏡の前で自分の姿を見つめ、ふと後ろの暗がりに気配を感じて振り返ったが、誰もいない。けれども鏡を見つめ直すと、そこにぼんやりとした理恵の姿が浮かんでいるような気がして、陽一は青ざめた。「お前のせいで母は苦しんでいる」と、鏡越しに理恵が冷たく微笑む気配に陽一はぞっとした。
※この作品は完全なる創作であり、事実や実在の人物、団体とは一切関係ありません。