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SOTSURON

何か特別に良いことがあったわけでもないのに、「やっば!人生、楽しいな!」となることがたまにある。
この心の声が出てしまうこともある。

告白してOKしてもらったときや、大きな試験に合格したとき、宝くじが当たったときなどにこう思うことは必然だとは思うが、何ともないときにそいつは突然湧き出てくる。

朝起きて部屋を掃除しているとき。
家の廊下を歩いているとき。
原付を運転しているとき。

場面は本当に様々で、ほとんど共通点のようなものはない。

でも、その気持ちが胸の奥から湧き出てくるということは、そのときの僕は本当に幸せなのだと思う。
たとえウンチを踏んでいたり、財布を落としたりしていたとしても、そのときの僕は最高に幸せなんだ。

だから、僕はこの気持ちと頻繁に遭遇する人生を送りたいと思っている。

それなのに、

それなのに、

ここ最近は「やっべ!人生楽しいな!」とはならない。


僕からすれば、それは由々しき事態で、どうにか解決の糸口を見つけたいところなのだ。
まあ、この理由は明確なんだけど。

その理由は、、、

「SOTSURON」



卒業論文

Instagramのユーザーネームなどで、例えば「SOTSURON」の「TSU(=ツ)」を「TU(=トゥ)」と書き間違えている人を見ると少し見下してしまうクソ野郎な僕だが、これまでのそんな悪行に対する報復を受けるかの如く卒論に追われている。
毎日徹夜とかの追い込まれ方ではないが、「あれを考えたら、これも考えなきゃいけない。と、思ったらこれも考えなきゃいけない!」という感じで、常に頭を使わなきゃいけない状態だ。

「ざまあみろ」と思われて結構なのだが、残念ながら、実は僕はこれを楽しんでもいる。

いや、今が楽しくない理由として卒論を挙げたりなんかしているが、寧ろ最初は楽しいからやっていたのだ。


2,3月から卒論のテーマについて軽く考え始め、4月には卒論ゼミが始まり、これまで約10ヶ月くらい取り組んできた。

サッカーとラグビーが大好きな僕は、3年生の夏頃から、スポーツについて書きたい!と思っており、まだまだ論文というものが何なのかすら分かっていないにも関わらず、その時から既に卒論に思いを馳せていた。

やっぱり僕は男で、中でも少年心を忘れていない方だと思っているから、「研究をしています」という響きに憧れていたということも関係しているかもしれない。


サッカーでは特にイングリッシュ・プレミアリーグが大好きな僕は、リバプールやマンチェスターの2つのクラブのようなお金もあって世界中にファンがいるビッグクラブは勿論、エバートンやウェストハムのような中堅クラブ、またプレミアリーグ(1部)ですらないプレミアシップ(2部)に所属するクラブでさえも、熱狂的なファンがいることに疑問を感じていた。

日本では強いチームこそ熱狂的なファンが多く、弱いチームは見向きもされないというイメージを持っていたからこそ、強く興味を持ったのだと思う。

そのことについて、これまで商学と経営学の勉強をしてきた自分の頭の中を検索すると、どうやら「忠誠心(ロイヤルティ)」というメカニズムがそこにはあるらしいぞ、と僕の脳がアンサーしてくれた。

しかし、それ以上のことは教えてくれないから、図書館でロイヤルティに関する文献を見つける。
そうして新たな知識・疑問と出会い、ここまで探究し続けてきた。

でも、僕の論文の出発点が忠誠心(ロイヤルティ)であったことから考えると、今はだいぶ違うことをしている。
軸は同じではあるが、論文とは何か、研究の意義などについて深く考えていくうちに僕の研究は変容していった。


一途であることが至上だと思いがちな僕は「出発点を見失うって1番ダメじゃない?」と思っていたし、同じように考える人も多いのではないかと思うが、ゼミの先生曰く、「最初のテーマから内容が変わらないことほど、クリエイティブじゃないことはない」ということだから僕は間違ってはいないのだと思う。


じゃあ、クリエイティブなことをしているのだからそれは最高に楽しいことじゃないか、と言われたら、そうじゃないのだ。
変な話だ。


僕は、どう考えても「やりたいこと」をやっている。
それなのに、気づいたときには、それは「やらなきゃいけないこと」になっている。

そんな同じ悩みを抱えている人も多いのではないだろうか。


それはやっぱり、これがあくまでも卒論であるからに違いない。
どれだけ自分のやりたいことを貫いていても、興味のあることを深めてい居たとしても、論文には論文の形式があって、期日だってある。
遊びとは違う。


これは仕事にも通ずる話だと思う。
「好きなことで生きていく」という言葉が流布しているが、真の意味でこれを実行できている人なんて限りなく少ないと僕は思う。

山口周さんはよく遊びを仕事にと言うけれど、その遊びだって、いつの間にか僕の卒論みたいに「やらなきゃいけないこと」に変容していくのではないだろうか。
つまり、クリエイティブであればあるほど、やりたいものではなくなっていくのではないか。
ん、さすがに、これは言い過ぎか。

これについてはあまり深く考えられていないからこれ以上の言及はしないが、ただ、僕がクリエイティブと相性が悪いのではないか、という疑念が生まれてしまったのは事実だ。



卒論から学べること

この卒論には相応の覚悟を持って挑んでいた。
今となっては恥ずかしい話だが、卒論に取り掛かり始めた時なんて、「この研究でスポーツ界を震撼させてやろう」と思っていたほどだし、みんなに書き上げた論文を見せて回るつもりだった。


また、この期間でマルチタスクな男になる訓練をしようと思い、大学の課外プロジェクトに参加してプログラミングの勉強を始めたし、ご縁があって実業団のラグビー部のスタッフをさせていただけるようもになった。
それなのに、どれも中途半端になってしまっている。

どれも順調にいっていないからこそ、「やっべ!人生楽しいな!」の瞬間が少なくなっているのだろうか。

それ以外にも、卒論を書いていて良かったと思うことはたくさんある。
まだ書き終わってないけど。


このnoteで、「実は、卒論で学べるのは卒論のテーマだけじゃないよ」と、卒論を書こうかどうか迷っている後輩たちに伝わったのなら嬉しいですよ。


ただ、このままこのnoteを締めてしまうと、「好きなことで生きていくなんて、夢のまた夢の話だよ。」というネガティブキャンペーンになってしまうので、最後に僕なりの解決策の仮説を唱えて終わりたいと思います。

その仮説の検証は、また僕に「やりたいこと」を実行する機会が訪れたときに。
そして、同じ問題を抱えた皆さま自身に、検証していただきたいです。
無責任な話ですけどねー!

ま、この仮説が支持されなかったときは、またその経験を批判しつつ新たな自分なりの仮説を立てて、また検証して、を繰り返していけば、ひょっとしたらそれは良い論文になるかもしれませんし、良い人生になるかもしれません。

うん。
上手く締まったのかは分からないけど、それでは僕の仮説でお別れしましょう。


『「やりたいこと」は仲間がいることで継続できる』


また来週!
あ、そのときには卒論が終わっている、!












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