岩槻を歩く③岩槻城址
引き続き岩槻です。
いよいよ今回のメインである、岩槻城址公園へ行きます。
江戸城・河越城に続き、太田道真・道灌親子が築城した(とされる)すべての城を今回で制覇することが出来ます。
岩槻城址公園
概要・MAP
岩槻城は室町時代末に築かれた城郭です。築城者については太田道灌とする説、父の太田道真とする説、そして後に忍(現行田市)城主となる成田氏とする説など様々です。
16世紀の前半には太田氏が城主となっていましたが、永禄10年(1567)三舟山(みふねやま)合戦(現千葉県富津市)で太田氏資(うじすけ)が戦死すると小田原城の北条氏が直接支配するところとなりました。
北条氏は天下統一を目指して関東への進出を図っていた豊臣秀吉と対立。やがて天正18年(1590)5月20日からの豊臣方の総攻撃を受けた岩槻城は2日後の22日に落城してしまいました。同年、豊臣秀吉が北条氏を滅ぼすと徳川家康が江戸に入り、岩槻城も徳川の家臣高力清長が城主となりました。
江戸時代になると岩槻城は江戸北方の守りの要として重要視され幕府要職の譜代大名の居城となりました。
室町時代から江戸時代まで続いた岩槻城でしたが、明治維新後に廃城となりました。城の建物は各地に移され土地は払い下げられて、およそ400年の永きにわたって続いた岩槻城は終焉の時を迎えました。
岩槻城が築かれた場所は現在の市街地の東側で、元荒川の後背湿地に半島状に突き出た大地の上に、本丸、二の丸、三の丸などの主要部が、沼地をはさんで北側に新正寺曲輪(しんしょうじくるわ)が、沼地をはさんだ南側に新曲輪(しんくるわ)がありました。主要部の西側は堀によって区切られ、さらにその西側には武家屋敷や城下町が広がっていました。また城と城下町を囲むように大構(おおがまえ)が造られました。
城というと、一般的には石垣や天守閣がイメージされますが、岩槻城の場合、石垣は造られず、土を掘って堀を造り、土を盛り上げて土塁を造るという、関東では一般的な城郭でした。
現在では城郭の中でも南端の新曲輪・鍛冶曲輪(かじぐるわ)跡(現在の岩槻公園)が県史跡に指定されています。どちらの曲輪も戦後時代末に北条氏によって造られた出丸で、土塁・空堀・馬出(うまだし)じゃど中世城郭の遺構が良好に残されており、近年の発掘調査では北条氏が得意とした築城術である障子堀が見つかっています。
現地の写真
鍛冶曲輪
空堀・土塁
惚れ惚れするくらい状態がいいですね!
堀障子
白鶴城址碑
石碑がある空間は少し開けてるんですよね。
何か建物などがあったのでしょうか。
八ッ橋
新曲輪
岩槻城城門
岩槻城裏門
人形塚
馬出
社になっている場所もあります。
1720系先頭車両
アクセス
東武アーバンパークライン(野田線)
岩槻駅徒歩25分(コミュティバスあり)