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永青文庫24’秋~信長の手紙

永青文庫に行ってきました。
今回の展覧会は『信長の手紙』

細川家所蔵の文書60通が
前後期に分かれて展示されております。



概要

戦国乱世を駆け抜けた武将・織田信長(1534~82)。永青文庫が所蔵する細川家伝来の信長の手紙59通は重要文化財に指定されていますが、これほどの数が一か所にまとまって伝わる例は他にはなく、直筆であることが確実な唯一の手紙をも含む点で、質量ともに突出したコレクションといえます。2022年には永青文庫で新たに信長の手紙が1通発見され、コレクションはあわせて60通となりました。

本展では、この全60通の珠玉の文書から、室町幕府の滅亡、一向一揆との死闘、長篠合戦、荒木村重謀反、明智光秀による本能寺の変など、信長の激動の10年間を、配下の細川藤孝(1534~1610)らの動向とともに丁寧に読み解きます。革新的、破天荒、残虐、超人といった現代の多くの人が抱く信長のイメージは真実なのか——。永青文庫の歴史資料から真の信長像に迫ります。

永青文庫ホームページより


新発見された信長の書状

室町幕府奉公衆であった細川藤孝宛の書状です。
後に織田信長側につき、現代まで続く細川家になるわけですが…

将軍・足利義昭奉公衆との対立が決定的になった元亀元年(1572)。
ただ一人信長についた藤孝が、京都周辺の領主との連絡役を担っていたことがわかる書状となっております。

あなたには方々で骨を折っていただき心苦しいのですが、いまこそ大事な時です。山城・摂津・河内方面の領主たちを、誰であっても、信長に忠節してくれるのであれば、味方に引き入れて下さい。あなたの働きこそ重要なのです。

現代語訳(一部)・図録より

二人の間で、かなり生々しいやりとりをしていたようですね。


織田信長の自筆感状

↑の画像が原本。
『感状』とは、戦功を称える賞状のようなものです。

天正5年(1577)八月、松永久秀が信貴山城で反旗を翻した際
嫡男の信忠が追討軍として派遣されました。

その際、細川忠興・弟興本が松永方の片岡城に一番乗りしたので
この感情が与えられたそうです。

(忠興からの)手紙を披見した。さらに励んで働くように。たいへんな手柄であった。

現代語訳・図録より

文章としては短いですが
信長直々に認めるところに意義がありますね。

ちなみに父である藤孝も参戦しており、「数多首」を上げましたが
こちらは右筆・楠長譜筆の黒印状となっております。


堀秀政の添状

なぜ↑の感状が信長本人の筆跡なのか?
がわかったかというと、この添状があったからです。

(忠興の)手紙を詳細に(信長様に)披露したところ、御自筆の御書をなされた。なお、変わったことがあれば、追って注進するようにとの(信長様の)御意である)

現代語訳・図録より

この添状が信長の感状と同時付けで発給されていることから
↑が信長の筆跡で間違いないことが判明しました。


『長篠の戦い』を信長自ら実況した文書4通

後方支援で、鉄砲の射手・火薬の調達などを
指示・手配していたのは藤孝でした。

信長が長篠の戦いについて語った書簡は現存しておらず
非常に貴重な文書となっております。

内容は、決戦前夜の決意表明

信長が負けないのは天の与えるところであるから、武田勢を根絶やしにしてくれよう。

現代語訳(一部)・図録より

前日の様子

(藤孝からの)手紙をみた。鉄砲のことを申し付けたとの知らせ、嬉しい限りだ。こちらの戦況は、まったく思い通りに進んでいる。

(中略)
今回(武田勢の)せん滅は目前である。追って吉報を届けることとしよう。

現代語訳(一部)・図録より

合戦後の速報

長篠の様子は以前書状で申したとおりである。本日、朝から(軍勢を)割り当て、数時間にわたり戦い、武田勢を残らず討ち捕った。

(中略)
いよいよ天下安全の基(もとい)である。よって、鉄砲の射手の件を(藤孝が)申し付けて(調達して)くれたことを喜んでいる。こちらは(武田軍の軍勢を破って)手があいたので、上洛する。いずれ会って話をしよう。

現代語訳(一部)・図録より

岐阜凱旋後の事後処理と自身の想い

周知のように(武田勢を)即時に切り崩し、数万人を討ち捕った。勝頼の首はまだ見ていない。大方は斬り捨て、川に漂う武者も多少見えるので、その中に(遺体が)あるのかもしれない。甲斐・信濃・駿河・上野の敵兵はほとんど残っていないだろう。近年の鬱憤を晴らしたぞ。かねて申してきたように、京都・近江・越前が敵対して混乱していた時、信玄は私を裏切り、恩義を忘れて、いいように暴れ回った。勝頼もまた同然である。やむを得ないことだ。戦えばこのように大勝するであろうことは、予想どおりであった。喜ばしい。あとは本願寺だけが(敵対勢力として)残っているが、数えるに足りない存在だ。すぐに上洛するので、その時にまた会おう。

現代語訳・図録より


朱印状と黒印状

信長は朱印状と黒印状を
用途によって使い分けていたようです。

朱印状→自発的な文書(基本的に返信の形をとっていない)
    信長の命令・指示が明確に記載されている。
黒印状→相手方からの返信に使用していたとみられる。

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