永青文庫に行ってきました。
今回の展覧会は『信長の手紙』
細川家所蔵の文書60通が
前後期に分かれて展示されております。
概要
新発見された信長の書状
室町幕府奉公衆であった細川藤孝宛の書状です。
後に織田信長側につき、現代まで続く細川家になるわけですが…
将軍・足利義昭奉公衆との対立が決定的になった元亀元年(1572)。
ただ一人信長についた藤孝が、京都周辺の領主との連絡役を担っていたことがわかる書状となっております。
二人の間で、かなり生々しいやりとりをしていたようですね。
織田信長の自筆感状
↑の画像が原本。
『感状』とは、戦功を称える賞状のようなものです。
天正5年(1577)八月、松永久秀が信貴山城で反旗を翻した際
嫡男の信忠が追討軍として派遣されました。
その際、細川忠興・弟興本が松永方の片岡城に一番乗りしたので
この感情が与えられたそうです。
文章としては短いですが
信長直々に認めるところに意義がありますね。
ちなみに父である藤孝も参戦しており、「数多首」を上げましたが
こちらは右筆・楠長譜筆の黒印状となっております。
堀秀政の添状
なぜ↑の感状が信長本人の筆跡なのか?
がわかったかというと、この添状があったからです。
この添状が信長の感状と同時付けで発給されていることから
↑が信長の筆跡で間違いないことが判明しました。
『長篠の戦い』を信長自ら実況した文書4通
後方支援で、鉄砲の射手・火薬の調達などを
指示・手配していたのは藤孝でした。
信長が長篠の戦いについて語った書簡は現存しておらず
非常に貴重な文書となっております。
内容は、決戦前夜の決意表明
前日の様子
合戦後の速報
岐阜凱旋後の事後処理と自身の想い
朱印状と黒印状
信長は朱印状と黒印状を
用途によって使い分けていたようです。
朱印状→自発的な文書(基本的に返信の形をとっていない)
信長の命令・指示が明確に記載されている。
黒印状→相手方からの返信に使用していたとみられる。