見出し画像

岩槻を歩く①太田道灌・氏資が眠る寺院、芳林寺

埼玉県さいたま市岩槻区へ行ってきました。
メインは岩槻城址なのですが、まずは築城した太田道灌にお参り。
駅から徒歩5分ほどの芳林寺へ伺います。



大平山 芳林寺

 当寺は釈迦如来を本尊とし、静岡県藤枝市洞雲寺の末寺にして、覚翁文等禅師(洞雲寺四世)の開山による禅刹である。
 境内墓地に応永、享徳年号の墓石があることから、室町時代の初期から当地に寺院があったことがわかるが、初伝によると、比企郡松山城に在った太田道灌公が延命地蔵尊を尊信し、松山城を築くにあたり堂宇を建てこれを祀り大平山地蔵堂と称したが、その後、文明十八年(1476)七月二十六日道灌公が主君・扇ヶ谷上杉定正に謀殺されるや、その遺骨(遺髪とも云う)を堂側に埋葬して、香月院殿春苑道灌大居士と諡(おくりな)したのであった。
 しかし、永正十七年(1520)八月火災に罹り烏有に帰したため、その後、曾孫太田三楽斉資正公は居城であった太田道真公・道灌公父子が築城した岩槻城下の当地にこれを写し、再建全く成って大鐘を掛け宝殿が空にそびえたという。そして五十石を寄進され常住の資に充てられた。
 また、太田道灌公が、相州伊勢原にあった主君・上杉定正の館で謀殺された時、父の道真公と道灌公の養子・太田資家公(岩槻城主)が伊勢原に行き、道灌公の遺髪と分骨をもらい受け、越生町の龍穏寺と岩槻の芳穏寺に埋葬したとも伝えられる。
 岩槻城主・太田氏資公の母公が禅門に帰依して芳林妙春尼と号していたが、永禄十年(1567)三月八日逝去するにおよび陽光院殿芳林妙春大姉と諡し、開基となしてその法号に因み寺号を芳林寺と改めたのであった。
 氏資公は北条氏康の娘(長称院)を妻に迎え、小田原北条氏に属していたが、永禄十年八月二十三日里見氏との上総三船山の合戦で殿軍を努め討死したので、その遺体を当寺に埋葬し、太崇院殿昌安道也大居士と諡した。
 天正十八年(1590)徳川家康公関東入国に伴い、高力清長公が岩槻城主に封ぜられるや当寺の興廃しているのを歎き大修理を加え復興した。
 そして、嫡男高力正長公が慶長四年(1599)三月二十二日卒したとき、当寺に葬り快林院殿全室道機大禅定門と諡したのである。この間いくばくもなくして火災に遭い堂宇悉く灰爐に帰したが、高力忠房公がこれを復興造営した。
 それ以降年月を歴て、またもや文化八年(1811)二月十八日消失し、現在の本堂は天保十二年(1841)五月再建したものである。
 なお明治四年(1871)埼玉県庁が一時岩槻に置かれた際、一部仮庁舎となったとも伝えられている。

拝受した御由緒書きより


境内の写真

本堂

太田家の家紋『太田桔梗』が光ってますね!
これだけでテンションが上がります!

太田道灌公・氏資公御霊廟

道灌公のお墓は関東に点在しております。
ここ芳林寺、越生町の龍穏寺、謀殺された神奈川県伊勢原市にも、首塚と同塚があります。

太田道灌公事績

太田氏資公事績

太田道灌公像①

このタイプの銅像はよく見ますね。
東京国際フォーラムや越生町、川越市や静岡県熱川も同じ種類だと思います。

太田道灌公像②

いやー、もうかっこいいの一言ですね!
ここまでの銅像であれば、本人も喜んでいるのではないでしょうか。

太田氏資公像

太田氏資公は道灌公の玄孫。芳林寺の開基でもあります。
後年は小田原北条家に使えましたが、永禄10年(1567)三船山合戦敗退時に殿を務めて戦死しました。


御朱印

初回なので通常の御朱印を拝受しました。
が、新春限定のものの方がよかったかな。とちょっと後悔。
祈祷料は500円で書置きのみです。


アクセス

東武アーバンパークライン(野田線) 岩槻駅より徒歩5分


いいなと思ったら応援しよう!