野田市を歩く②~鈴木貫太郎記念館・墓所
野田市第2回は、『終戦時の内閣総理大臣』鈴木貫太郎記念館と墓所へ行きます。ここが終焉の地だったんですね。
鈴木貫太郎記念館
写真の後方に見える塔には『為万世開太平』と揮毫されています。
「万世のために太平を開く」と読み、終戦の詔書でも使用された文言。
意味は、『後々の平和の為に平和をつくる』というもので、平和を望んだ鈴木貫太郎翁は、戦後にこの言葉をよく揮毫したと伝わっています。
ホームページ→鈴木貫太郎記念館
野田市鈴木貫太郎記念館概要
2019年に襲来した台風19号、それに伴う耐震診断の影響により、現在は小規模な資料の展示・映像資料の公開(副館長の解説あり)が行われています。
鈴木貫太郎について
リンクはこちら→鈴木貫太郎プロフィール
鈴木貫太郎年譜
資料映像について
鈴木タカ夫人が昭和40年に受けたインタビューの肉声が公開されています。
二・二六事件で貫太郎翁が受けた襲撃の一部始終が生々しく語られていて、とても切迫していた様子がうかがえます。
陸軍青年将校らから計4発の銃弾を受けましたが、致命傷はなかった(出血多量ではありましたが)。
鈴木邸襲撃を指揮していたのが、貫太郎と面識のある安藤輝三大尉であり、とどめをしなかったことから一命をとりとめたそうです。
二・二六事件は1936年2月26日に発生しましたが、貫太郎は翌年1月には復帰しております。
鈴木貫太郎邸井戸
終戦内閣総理大臣鈴木貫太郎翁は、終戦処理の大任を果たし、昭和二十一年九月郷里関宿に帰られました。
時に八十才であり、且つ二・二六事件の時には数発の弾丸を身に受け、その内の一発は体に残っていましたが、矍鑠(かくしゃく)として居られました。
翁はこの地に農事研究会を発足させ、青年を指導され、将来酪農を農業経営に採り入れていくべきことを助言されました。
「酪農の町関宿」の基礎は、翁がきずかれたといっても過言ではありません。
昭和二十三年四月十七日「永遠の平和」の一語を残し、八十二歳で大往生されました。
野田市教育委員会
『鈴木貫太郎終焉之地』石碑
アクセス
東武伊勢崎線 東武動物公園駅よりバス
関宿台町バス停下車 徒歩2分
実相寺(鈴木貫太郎墓所)
概要
境内の写真
山門
本堂
寺紋が『月星』っぽいのですが、右向きなんですよね。
千葉氏の家紋は左向きだったので、別の家紋なのでしょうか。
鈴木貫太郎の墓
偉人という事もあり、綺麗に手入れされてますね。
アクセス
関宿台町バス停下車 徒歩15分程度