今の時代におけるモノ作りとの向き合い方
「新規でモノを作り出す0→1のフェーズが得意です」
以前はこんな自己アピールをしていた人が多かった印象だが、ひと昔前に比べても何らかの作品を世の中に出すためのコストは格段に低くなった。
Webサービスを作りたければ自前でサーバをたてなくてもHerokuやAWSを使うことが出来るし、あるいはFirebaseのようなBaaSが多くの機能を肩代わりしてくれたりもする。
GPUや低レイヤーの仕組みに明るくなくても高度に抽象化されたミドルウェアの力を借りれば素人でも3Dゲームを作ることが出来るのだから技術の進歩には驚かされるばかりだ。
文章を書いて公開したいとなれば、今まさにこの文章を書かせていただいているnoteのようなプラットフォームの力を借りることが出来るわけだし、ジャスティン・ビーバーや米津玄師になれるかどうかは分からないけれど、彼らと同じようにYouTubeを通じて全世界に向けて作品を発表していくこと自体は誰にだってできる時代なのだ。
優先順位と仮説検証
0→1が誰にでもできるようになった世界の中で、必然的に重要になるのはどうやって作り出した作品を成長させていくか、ということになる。
確実で分かりやすいのは売上やKPIなどの数字だ。
特定のプロセスにおいて数値上のボトルネックが明確であれば、そこに対して分析を行い、打ち手を考えればいい。
読み取る側のスキルによって誤った解釈は起きる可能性があるが、基本的に数字自体は嘘をつかない。
次に有効なのはユーザーインタビューやアンケートだろうか。
造り手の立場とは異なる純粋なユーザーの立場からの意見が聞けるし、造り手側が想定していなかったようなユースケースを発見できる場合もある。
ただし答えるのが人間である以上、インタビューされる側の個人バイアスはかかってくるし、造り手の想いが強すぎると質問自体が誘導尋問になってしまう場合もあるので注意が必要だ。
真逆のアプローチとして、ユーザー側の意見や実際の使われ方がどうなのかに関わらず、造り手が導きたい方向性やプロダクトビジョンに従って舵を切っていくような意思決定を行うケースもある。
既存ユーザーを失ってしまうリスクを伴うため、造り手側の強い意志と覚悟によって推し進められるケースだ。
上に書いたもの以外にも、仮説や優先順位の決め方というのは色々あるとは思うのだけど、1つだけはっきりさせておいた方が良いと思うのは、仮説作りや優先順位付けというのはいかに成功確率を99%に近づけていくかという作業であって100%の成功を保証するアプローチではあり得ないということだ。
仮説検証の観点では、100回の市場分析よりも1回の実行の方が遥かに優れていることの方が多い。
なぜなら結局何が正解だったのかを知る方法としては実際にモノをリリースしてユーザーの反応を見ること以外にはないからだ。
造り手と評論家
インスタやFacebookなどの既存SNSがそろそろ消えると思うので代わりに新しいSNS作りましたって記事がタイムラインに流れてきた。
出だしから既存のSNSは自己承認欲求がベースだとか偏った見解が書かれていて、それに対する批判的な意見も散見されたし、そのこと自体は私個人には刺さらなくて感想とかもなかったのだけど、新しい作品を作って世の中に出していくことについてはシンプルに良いことだと思っている。
何かの作品を世の中に出していくと、必ずと言っていいほど我が物顔で持論を展開してくる評論家気取りが湧いてくるものだ。
曰く、そんなものはうまくいくはずがない。
曰く、ユーザーはそんなものを望んでいない。
曰く、ダサい。
全部クソくらえだ。
どんな作品であったとしても、結果的に成功するかどうかは実際に世の中の評価を受けて試行錯誤を繰り返し尽くすまでは誰にも分からないはずなのに、ひたすら批判ばかりを繰り返す行為のいかに非生産的なことか。
冒頭に書いたように、1つの作品を作ることや、公開してユーザーの目に触れてもらうための難易度・コストはひと昔前に比べて段違いに低い時代になった。
造り手ではない評論家気取りたちはその程度のコストさえも支払えないのだから、日の目を見ることのなかった造り手たちよりもずっと価値がなく、邪悪な存在であるということをもっと自覚するべきだと思う。
今を生きる私たち造り手とモノづくりとの向き合い方
世の中に浸透していったメガヒットな作品の陰には、数多くの失敗や淘汰され消えていった作品の造り手たちがいる。
むしろ成功したものなんて広大なサハラ砂漠の中のほんのひとすくいの砂粒でしかない。
仮説を立てたり優先順位をつけることが100%の成功を保証しないということは、翻せば失敗するかどうかを100%見極めることが誰にも出来ないということでもあるのだけれど、過去に何が失敗したのかを知るということは失敗の確率を限りなく99%に近づけていくために必要な作業だ。
私達のように今を生きる造り手たちは、もっと消えていった数多くの先人たちのことを知り、それらの失敗から多くのことを学んで、これからのモノ作りに繋げていく必要があるのではないだろうか。
世の中に何かを残していくために、私たち自身が失敗できる時間や猶予は、実は驚く程に短く、少ないものなのかもしれない。