第2合『酵母は筆を誤らない』:酒役〜しゅやく〜
イタリア人留学生ソニアに連れてこられたのは、大学通りに唯一ある酒屋さんだ。通学路なので、その存在は知っていたが、中に入るのは初めてのこと。お酒を買うなら、いつもスーパーやコンビニへ行く。
「なんか薄暗いけど、この店、ほんまに大丈夫なん?」
「坂倉くんは、中が明るいワインセラーを、見たことが、ありますか?」
「たぶんない。というか、ワインセラーを見たことがないかな」
「じゃあ、閉まっているときも、中が明るい冷蔵庫を、見たことが、ありますか?」
「たしかに、それはないなぁ……ん? それがどうしたん?」
「お酒は、光に、弱いんです」
「ひかりによ、ワイン?」
「もう、いいです」
店に入ると、奥の方から白髪の老爺が現れた。
「ボナセーラ、ソニアちゃん。今日はボーイフレンドと一緒ですかいな」
「ボナセーラ、店長さん。この人は、大学の同級生の、坂倉くんです。決して、ボーイフレンドでは、ありません。絶対に、ありえません」
そんなに強く否定しなくても……
「お兄さんも、日本酒が好きなんですかぃ?」
好きではないです、と答えそうになって、ここが酒屋さんで、この人が店長さんで、隣にはソニアがいることを思い出した。
「まあまあ好きですかね……」
ソニアは、薄暗い店内を照らすほどの明るい声で、店長さんに話し掛ける。先ほどまで泣いていたとは思えない。
「今日も、日本酒をテイスティングさせてもらえますか?」
「もちろんですよ」
日本酒が並んだ冷蔵庫の前で、ソニアと俺は、小さなプラカップを渡された。
「では、まずはこれから、どうですかぃ?」
プラカップに注がれた『日本酒』を、ぐいっと飲んでみる。
……だまされた。
「もう! 店長さん。これ日本酒じゃなくて、白ワインじゃないですか。ラベルが日本酒みたいやったから、てっきり日本酒かと思いましたよ。それにしても、めちゃくちゃおいしい白ワインですね! こんなにおいしい白ワインは初めて飲みました」
店長さんは、ただ笑顔で頷いた。
次に、ソニアがその『白ワイン』を飲む。
「ほんとですね。まるで、白ワインのような『日本酒』で、とってもおいしいです」
「ソニア、これは日本酒じゃなくて、白ワインやで。ラベルが日本酒みたいなだけで」
すると、それまで笑顔で見つめていただけの店長さんが、口を開いた。
「こちらは、『越後鶴亀の純米吟醸酒』なのですが、ワイン酵母仕込みなんですよ。白ワインと間違えてしまうのも無理はない」
訳のわからない言葉が並べられていて、店長さんは、とうとうボケているのだと思った。
そんな俺とは違って、ソニアは、妙に納得した表情をしている。
「とどのつまり――」
「どこで覚えたんや、そんな日本語」
「通常、日本酒は、日本酒こうぼを。ワインは、ワインこうぼを、使うのです」
「なるほど。パンはパン酵母を、ビールはビール酵母を使うもんな。あと、きんぴらはゴボウを」
「しかし、この日本酒は、ワインこうぼを、使って、造られたそうなのです」
「そういうことか。だから白ワインみたいにフルーティーやし、すごく甘いのに炭酸のように弾ける爽やかさもあるのか」
「ほぉー、結構なもんですな。お兄さん、なかなか鋭い感覚を持ってらっしゃる。ソニアちゃん、いいボーイフレンドを捕まえましたね」
「ボーイフレンドじゃ、ありません! 絶対に、違います!」
俺は、自分の持つ才能に、まだ気付けずにいるみたいだ。
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