まずは自分のこと~地獄の思春期編~

前回は両親の離婚、父が極道の世界に足を踏み入れた話まで書きましたね。

で、そう。父とは離婚後も月一くらいのペースで会っていました。なので父の生活の全貌は知らないし、やはり知るのが怖かったので、私から敢えて聞くことはしませんでした。それでも父の生活、そして父の心が徐々に荒んでいく様は幼いながらに敏感に感じ取らざるを得ないものでした。下記、拙いながら記憶を辿ってその変化を列挙する。

・母に対して突如暴力を振るうようになった。(一応名誉のために言っておくと、子供に暴力を振るうことは最後までありませんでした)

・包装もされていないブランドの衣料品をよくくれるようになった。

・異常なまでに時間にルーズになった。2時間待ちとか当たり前。

・夏なのになぜか半袖の服を着なくなった。

・いきなり長渕剛に傾倒し始めた。

・一緒にデパートに行った時、トイレから出てきた父の目が明らかにぶっ飛んでいた。

はい。もう最後の三つなんて明らかにフラグ立ってますよね。元プロ野球選手の清原氏などもそうですが、そっちの方々はどうも長渕の兄貴に強い共感を覚えるようです。まあそれでも信じたくなかったのか、無関心だったのか、ちょっと当時の自分の気持ちは覚えてないんですが、ある日私は決定的な光景を目にします。

その日は父の家で待ち合わせをすることになっていました。離婚後の父の家には行ったことがなく、前述のフラグのこともあり正直気乗りはしていませんでしたが、一応気づかないふりをしている手前、憂鬱な気分でドアを叩いたことを思い出します。

父はランニングにパンイチで机で作業中。机には「はかり」と透明なパケ。そして白い粉を丁寧にテレホンカードを使ってまとめ、はかりに乗せる父。その腕には明らかにシャブ痕と見られるカサブタ。。私に一連の作業を隠すでもなく、いつもと同じような挨拶をする父。怖いとも違う、悲しいでもない。どこか他人事のような冷めた気持ち。私は多分この瞬間、同世代の人間より早く大人にならざるをえなくなってしまったのだと思います。

その後、父は逮捕されました。私が中学1年の時です。そこから3年間のもの間北海道の月形刑務所にいたのだから、恐らく初犯ではなかったのだと思います。そこから父と私の関係は、定期的な文通という形に変わりました。父からは「正月は刑務所でも映画が見れて、アンパンとコーラがでました。」「今日は棚を作りました。」などと、40代男性からの手紙としては非常にシュールな内容がつづられていましたが、刑に服すということは人間をやり直すことでもあるのだなと思いました。一つ驚いたことと言えば、恐らく刑務所で暇なのでしょう、普段絵など描いたこともない父が、クレヨンを使って絵を送って来るようになりました。最初は本当に大人の描く絵だろうかというレベルの、ただの落書きのようなものでしたが、慣れというものは恐ろしいものです。父は徐々にクレヨン画の技法を身に着け始め、出所前には「夜の桜並木を走る列車」というちょっと良くわからないファンシーなシチュエーションながらも、「ああ、なんかいい感じじゃん」と思えるほどに腕を上げていました。人間の進歩には目を見張ります。

一方私は、中学受験により中高一貫の男子校に進学するも、周囲の馬鹿みたいに騒いでいる連中がどうにも無意味で、子供に見えて、早くも人生に対する絶望を抱き始めていました。勉学に励む訳でもない、部活に入れ込む訳でもない、仲間といてもいつも孤独を感じていました。ここら辺は尾崎豊の影響もあって、今となっては恥ずかしい限りです。

心のうっ憤を晴らしたくてバンドを組むことにしました。それは本当に自分にとって唯一の救いだったかもしれません。曲を作って、練習して、ライブをする。きっと身近に具体的な目標があったことがモチベーションに繋がったのだと思います。

まあそれでも心は満たされないまま高校生にとっての人生の岐路、大学進学の時期を迎えます。私の高校は中高一貫と言いましたが、一応世間には名の通った大学の付属高でもあり、全体の7割程度はその大学に進学することが可能でした。一応勉強をほとんどしない私でも、その7割圏内には入っていて、当然苦労してここまで学校に通わせた母からすれば、その大学への入学は念願でした。

それでも私は最後の大学推薦テストを白紙で出し、自らその道を絶ってしまいました。

続きはまた次回。


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