学校教育の課題…。いや、日本の教育自体オワコンだよね?という話

はじめまして。

塾のバイト歴約1年の建築学生こと、『いちま』です。

今回はちょっと日本の教育について疑問点がありすぎて、言いたいことが有り余っている状態なのでnoteにて発散します。

また、このnote構成は以下のような感じです。


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・前半:今の教育に対しての一個人としての意見
・後半:前半の内容をもっと深く掘り下げた内容

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さてですね。賢い人ならもう日本の教育が、オワコンなのは充分承知のことではあり、そんなことはわかっている!と思っている人が大半かと思います。

ただ今回声を荒げて、言いたいことは・・・

『どうせ勉強するならもっと賢く学び。そして、本当の意味での自分の血肉となるような学びの教養を身につけるべきなのでは?』

というようなことが、僕は今回声を荒げて言いたい。


でも、なんでこんなことを急に言い出したかというと、冒頭の軽い自己紹介でもサラっと触れたように…僕自身塾でバイトを約1年ほどやらさせてもらっているわけなんです。

ほんで、そこでの経験から、『あ~やべ~な、これ無意味。』とか『こんなの意味ないだろ?』とか『全然学んだことが、喉元過ぎれば熱さ忘れる状態やんけ』といったことが度々あったわけ。

もちろん、僕はただのバイトの小童なので、ベテラン講師の方のように合理的な良い指導ができているわけじゃありません。

ただ、それでも。根本的に生徒自身が正しい学びという教養を身に付ける。←それを僕ら教育者が導いていかんとダメだよねってことをいつも指導していて思うんです。

まあ、早い話は↑こうなんだけど。これを適切に行うものならば、土台(教育システム)が必要になってくる。が、今の日本教育自体がオワコンなので、無理じゃんという話です。

これは塾でも例外じゃなく。無意味なことやってたり、更にはテキスト自体がゴミのモノもある。(個別指導というシステムは、生徒一人一人に向きあいながら指導できるので、これは賞賛できることなんだけど。)


まとめると…

教育システム自体を変える(ex.板書の授業)とかしないと、指導者も間違った柵に縛られながら指導するわけだから、良い道に導いていくことなんてできないよねって話です。


人が学ぶ上で欠かせない『本質的な道理』は何か?

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さてさて、前半をこんくらいにしておいて、後半はもっと濃い煮詰まった深い話をしていきます。

ほんで、前半同様に僕個人といての意見なことに変わりはありません。でも。ただただ主観的な意見ではなく、客観的データ(事実)に紐づけながら述べていることなので、少なからず適当な意見ではないです。

そこで、タイトルにもあるように・・・

人が学ぶ上で欠かせない本質的な道理は何か?

こういったことを考えたので、一種のプレゼン感覚で読んでもらえたらと思います。

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はい。前置きはおいとして話を戻しますが、『人が学ぶ上で欠かせない本質的な道理は何か?』この問いへの1つの答えとして。

『学ぶ目的を明確に持ち、自らが能動的に学ぶ姿勢を宿すこと。』

・・・僕個人の1つの答えとしてはこう思っています。

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基本的に学生(僕も学生ですが(笑))の多くが、目的もないまま学んでいると思っていて、これは小・中・高・大すべてに当てはまること。

学生の内から、自分は将来医者になるんだ!とか、弁護士になるんだ!とか明確な将来像があり、そのためへ着実にステップを上げていくような筋道の通っている場合は別。

けど、学生の多くが目的もないまま授業に出て、なんとなく板書をnoteの写し、そしてテストでいい点を取るための勉強をしている。

んで、その傾向が顕著に表れいるのが、大学だったりですね。

・出席だけ代わりに取ってもらい変える。
・レポートはコピペが当たり前
・授業はただ板書を書き写すのみ
・テスト勉強は一夜づけ

はっきりいうと。こんなことしていても、ほんと全く意味ないじゃないですか!

でも、事実こういった学生が大半(僕自身も大学2年まではそうだった。)じゃないですか?(もちろんすべての学生ではなく、優秀な学生はたぶん自ら目的をもち行動していると思います。)

けど、これは学生が悪いわけじゃなくて、授業を工夫しない教授、教師。もっというと、そもそも論から日本の教育がオワコンだから、自然とそういう学生が量産されてしまっていると思います。


学ぶ目的を明確に持ち、自らが能動的に学ぶ姿勢を宿すことの大切さ。

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じゃあなんで、今の教育システムがダメで、且つ目的をもって学ぶことが大切なのか?

・・・具体例をあげながら話していきます。


✔人間の脳は自分に関係のないと脳が判断した場合、たちまち忘れてしまう。

学んでも忘れてしまうから。

これは脳の構造上の話であり、ちゃんと研究でも明らかになっていることです。こういった系の本をよく出している『メンタリストDaigoさん』。彼のの話なんかでも口酸っぱく聞いたことがある人はいるんじゃないでしょうか?

また偏差値35から東大に合格した、、、名前は忘れましたけど、その人も『勉強は目的を持ち向かい続けることが大事なんだ』と言ってたりもします。

結局目的をもたないいまま授業を受ける。これは家庭での勉強でもそう。脳みそのスペックが両親の遺伝の影響で元から素頭がいいやつ(※研究で立証済み)を除けば、スペックの悪いやつが目的も持たず、ただたんたんと学んだところで、知識という名の血肉となるわけがない。

でも、ただ目的をもてばいいわけでもなく、あくまで『目的とはスタートに過ぎず、大切なのはそこから更に発展させること』です。

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✔目的をもち、その目的を達成するために問いを生むこと。

目的をもつことは、あくまで学ぶ姿勢への序章に過ぎず、ここから更に発展させて、はじめて自分の糧になります。(まあ、目的なんて誰でももとうと思えば、もてるので当たり前ですよね。)

具体的にどう発展させるのかというと・・・問いを生む=問題提起をすること。

これは当たり前なんですが、『知らないことを知ろうとするために、人間は学』だから、その過程においてわからないことが当然でてくるわけです。

ex.例えば、『人』という字を覚えて、明日からはひらがなじゃなく、ひとは漢字で書けるようになろう。といった目的をAちゃんが設定した場合。

●Aちゃん
『人という字をひらがなでも漢字でもない、カタカナの『ヒト』で書いているのを本で見たことがある。』
『でも、なんでひらがなでもなく、漢字でもなく、カタカナなんだろう??』

目的を定め、知らないものを知ろうとすれば自ずと問いはでてくる。

もちろん、より高度なものに向かえば、この問いの数も必然的に増えます。これは年齢を重ね、小・中・高・大と歩みを進めて行けばいくほどに。

でも、多くの学生は端からそんなことしないで、ただ単に教師が板書したものを写しているだけだから、全く無意味と化すわけです。(もちろん、何度も言うように自分で工夫して授業を受けている人もいます。)

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✔目的をもち、問い続けることの最大のメリット

じゃあ、結局どんないいことがあるのか?

これは僕の実体験ですが、小学生。いやもっと昔なら幼稚園の時に自ら能動的に学んだことは今でも鮮明に脳に焼き付いています。

これは間違いなく、自分の知識としての血肉になっている。

例えばですが、僕は小学生の時。宇宙への探求心が強い少年でした。なので、暇さえあれば、図書館の図鑑を読みあさってましたね。

目的はいたって単純。

『宇宙を知りたい!』

ただそれだけです。でも、それだけなんだけど、調べれば調べるだけ問いが生まれます。『なんで太陽はこんなにも熱いのだろうか?』→『ほうほう、なるほど。これが理由なのね。』といった具合に。

けど、それらは能動的な学びの姿勢は、他のどんな授業よりも価値あるものでした。

なぜなら、今でもその時に得て知識は覚えているから。

学ぶという枠組みで見れば、同じかもしてません。でも、結果論として長い目でみれば結果は一目瞭然。

覚えていない知識は結局無駄だったてことなんです。

でも、一概に安易に『無駄!』と断定するのは複雑な因果関係が絡みあう世の中なので、不本意かもしてません。

けど、僕の中での価値観として消え去った学ぶは皆無駄だと思っています。

結局は学びや勉強もそう。知的好奇心に溢れ、楽しみながら脳内にドーパミン分泌しないと、結局意味ないよね?っていう話です。

だから、50・60過ぎたおっさんが子供の時に見ていた漫画を何十年もたって、語り合うような現象が起きるわけです。ドーパミン効果によって…。


以上のことを踏まえると、僕が最初に定義した・・・

人が学ぶ上で欠かせない本質的な道理は何か?』それは『学ぶ目的を明確に持ち、自らが能動的に学ぶ姿勢を宿すこと。』

このことが論理的に説明できるわけです。


道理がわかれば、改善点も見えてくる。

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道理さえわかれば、自ずと改善点も見つかり、現状をよりよくして生徒の能力をもっと伸ばすことも可能といえます。

これまた僕の実体験ですが、バイト先の塾が取り入れているダメな単語テストの話を元に改善点を示したいと思います。

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✔英語の授業は、毎回はじめに単語テスト!

内の塾では英語の授業時、毎回単語テストを行います。

仕組みとしては以下。

①単語テストを受ける。
②合格であれな、来週暗記するプリント配布。不合格点なら来週また同じテスト。

といった感じです。

でも、これじゃ~全く意味ないよね?って話です。ここまでnote読んでくださった方なら、何となく言いたいことは察していることでしょう!

こんなのただの一過性のその場凌ぎの知識に他ならりません。人体でいう、骨がなくて、肉だけの状態ですね。

まあ、目的がテストで合格することになってしまっているから生徒は悪くないんです。

仕組みをつくる側の問題であるので。

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✔どうせ単語テストやるなら、骨組みのあるものに。

別に単語テスト自体を否定しているわけじゃありません。ただ、やり方を変え、別の目的を生徒がもてるようにすればいいだけなんです。

例えば、今の単語テストはただ単語とかが適当に並んでいるだけのプリントをただ覚えるだけのものなので・・・

単語を覚えてくるのはいいけど、実際のテストは『名詞や動詞に分類させるもの』とか。更には重要表現などの、『be able to~』とかは『〇〇形などのどんな単元で使うものなのか?』といった具合に変えるべきだと思うんです。

こうすれば、ただ単に覚えるだけじゃダメなので、合格するという目的は既存として存在しますが、加えて単語を覚えて分類するという目的が加わります。

そうすると、ただの暗記に問題提起が生まれる。→『これは名詞?それとも形容詞?』といった感じでね。

で、自分で調べるキッカケが生まれ、それが解決した時に嬉しさだったり、面白さといった感情が生まれるので、脳汁ブシャー。

でも、だいたいの学校の単語テストって前者の塾のような形式の単語テストですよね。繰り返しですが、これじゃ~マズイよねって話。

こんなクソみたいな単語テストで単語を覚えても、実践で活きてこないんですよ。だから、指導してて英語の型(単元ごとの)はわかってても、それを構成する基礎的な単語力が弱い生徒が多く現れる。

もうほんとに骨組みを形成する、形式に変えるべきだと僕が思っています。



『どうせ勉強するならもっと賢く学び。そして、本当の意味での自分の血肉となるような学びの教養を身につけるべきなのでは?』

学問には答えはないので、何が正しいとか正直ここまで色々と語ってきましたが、よくわかりません。

けど、少なからず改善するべき点は改善していかないと、日本はどんどん海外から遅れをとるぜ!ってことが最後の締めです。

ほんじゃ、さいなら~

ご意見とかありましたら、コメントよろしくお願いいたします。


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