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私自身の子ども商店なぜやるか・その2
昨日の「私自身の子ども商店なぜやるか」に続きまして、本日はその2
昭和すぎる写真で恐縮です。
母に抱かれてる私と5歳上の姉。
写真、右端に写っているトラックの文字「サニタリ牛乳」は私の実家の元家業、牛乳販売店・寺西牧場の自社ブランドです。
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1969年に廃業、姉7歳、私2歳、妹0歳でした。
廃業に至った理由・本当のところは詳しく知りません。
「おじいさんは偉かったんや。俺は貧乏人のボンボンでおじいさんがつくった会社をよう続けんかった」父は時折そう言ってましたが、果たしてそうなのか・・・
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父は父で祖父とは違う形でその後の個人商店・寺西商店を50年以上経営し、毎日5時すぎには家を出て店を開ける。80歳まで積み重ねてきたことを私はすごいって思うし、心から尊敬しています。
私の記憶にあるのは、お好み焼き屋の仕事から帰ってきた父に競うようにまとわりつく私と妹の様子。プンプン匂うお好み焼きの匂いと映像が今も蘇ります。
お好み焼き屋は牛乳販売店時代、大阪地下街の売店に牛乳を納入していたご縁、空き区画でミルクスタンドをやって欲しいとの要望で始め、ミルクスタンドは儲からん!ってことからお好み焼き屋に業態変更しました。創業は父で祖母が家で出汁を作ったり、キャベツを刻んだり・・・。その後、叔父が引き継ぎ、今は従妹夫婦が後を継いでくれています。
病院売店も牛乳販売店時代に牛乳を納入していたご縁で、当時庶務課が直営していたのを、「面倒だから寺西さん、頼むわ」・・・っと依頼され母とパートさんから始めたことが後に家業となりました。
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父も母も忙しい幼少時代でしたが、寂しくなかったのは近くに住んでた祖父母の存在が大きいですが、それ以外にもたくさんの大人たちに見守られてきました。
家は商店街の端っこだったので、「寺西さんところの子」として、思春期は面倒臭い思いもいっぱいだったけど、学校に行くまでの間に何人もの大人に挨拶していったり、
商売していた祖父母の元には親戚はもちろん、仕事関係の人たちも、毎日売り上げの集金にくる信用金庫の人もいましたし、夏休みになると母の出勤時に病院売店について行き、看護師さんや技師さんたちの休憩所で宿題して仕事終わりを待ってました。
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いろんな人たちとの出会いが人生をより豊かにします。
私の人生は人とのご縁が素晴らしい!
このことだけは自信を持っています。
子どもの頃から親や先生以外の人たち・多種多様な人たちにも出会い、考え方や生き方を見聞きしてこれたことが、良いご縁をキャッチできる感性に繋がっていると思っています。
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子ども商店プロジェクトは
MG(マネージメントゲーム)とリアル出店を繰り返すことで経営やものづくり、地域と子どもたちを繋ぎます。
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子どもたちの才能の可能性は「経営」に限らず、その子たちの持ち味が生きること。
人は誰もが一人では決して生きていけなくて、助け合ってこそ夢が叶います。
「助けてください」と言えること。
「ありがとう」と言えること。
「ごめんなさい」と言えること。
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私は子どもがいません。
だから子どもたちの「今」をしっかりわかってるわけでもないし、「気持ち」をちゃんと理解もすることもきっとできません。MGのインストラクターでもないし、教育を志してきたわけでもありません。
でも・・・
たくさんもらってきた、愛とご縁は次世代にどうしても送っていきたい・・・
じゃないと、人生のバランスシート
「預かり」ばかりが増えてしまいます・・・
😊
・・・
っといっぱいの想い=重いにならないよう、私も存分に楽しむのです👍
私の「好き」が繋がった、今回の八尾子ども商店^ ^
準備は始まったばかりですが、それはもう、お口チャックができるのか…ってくらいに楽しみで…
「かずみんあっち行って!」って言われないよう、心します🥰