ダイコンおろし
ごめんください、という言葉は、誰かの家を訪ねた時に最初に発する言葉だが、帰り際にも使う言葉。帰り際に軽く頭を下げてのごめんください、そして静かに扉を閉め颯爽と去り行く。
そこに紳士、淑女性を感じる。
生まれ育った街はよく在りがちな海縁の気性が荒い町と称される場所だった。内面は違うのだろうが、十把一絡、反几帳面、それらの持ち合わせが総じて気っぷのいい、いい男と見られるような風潮があった。不良はかっこいいとの構図だ。
その町には親類の叔父、伯父がたくさんいて全てが高倉健か川谷拓三あるいは火野正平タイプの類だった。正月に集まると酒の匂い交じりのお年玉が配られその額はおよそ小学生がもつ金額ではなくなり、その全ては母親に没収されていた。その儀式が毎年繰り返されていたのだがいつか没収される前に逃げてやろうといつも考えてた。
その大きな宴を仕切るのは祖母。普段から和服を着ていたがそんな時はその上に割烹着。祖母は土間の台所の大鍋から立ち上る湯気の中にいつも構えていた。
近所に日和山という小さな山と小さな平地がありそこは最高の草野球を楽しむスペースだった。野球とはいえバットはそのへんの木、球は駄菓子屋に売っているゴムボール、ベースは足で地面に書いただけの二塁のない三角ベース。
それでも野球は白熱の展開だった。数軒となりに平屋の古い屋敷がある。
夕刻、埃と泥で野良犬のようになった僕がその屋敷の前を通過すると裏木戸から小さく畳んだ風呂敷を手にかけながらとても大きなダイコンを抱えた祖母がいた。そのお宅からの頂きものであることはすぐにわかった。祖母は小さくお辞儀をしながらごめんくださいと言ってその裏木戸をあとにした。僕を見かけた祖母は笑いながらそのダイコンを僕に委ねた。
当時、たぶん1メートル40センチぐらいの身長だっと思うが、対して約1メートルの巨大ダイコンは僕にはとてつもない負荷だった。
夕闇が押し寄せて暗くなってきた。
僕はダイコンが地面を引きずっているな、と自覚しつつ歩いた。祖母は何かの歌を歌っていた。
家に着く。
気になるダイコンを見た。ダイコンの下部は地面に削れて消失していた。
僕はこれは、ばれたらとてつもなく怒られるだろうと察しそのダイコンを体の後ろに隠した。
祖母は何ごともなかったようにそのダイコンを見て笑った。
そして僕もけらけらと笑っていた。
そんなことを思い出している4月の夜。