大切な人が亡くなって8年にして思う事
今日は大切な友人の命日。肉体を脱いだ(この世を去った)日。
早いもので丸8年経ってしまいました。
この8年。2900日を超える日々、私は一度も彼を思いださない日はなかったし、思いだすと泣いてしまう出来事は数日にいっぺんしか思いださないようにしていたし、感謝しない日もなかった。
こう書くと、恋人なのかなって思われそうですが、彼とそういう関係になったことは一度もありません。でも、ただただ私は尊敬していたし、とても大切にしてもらっていたとは思います。そんな稀有な関係の大切な友人。
ほぼ丸8年、私は彼が”いない”ことにフォーカスしていました。
大切な友人はもういない、なぜ彼の苦悩に気づかなかったのか、なぜ私に相談してくれなかったのかと。
8年の間に、彼を感じる瞬間もたくさんあったし、彼に助けてもらってるなと分かる瞬間もたくさんあったけど、それでも尚、そんなことしなくていいから生きていてほしかったと、”いない”ことを抱えて生きて来たと思います。
ただ、先日初めて、8年目にして初めてはっきりと夢に出てきてくれました。
夢の中の彼は、片方靴を履いてなくて、靴下も半分脱げていて。靴なんていらないあの世から来たってわかるそんな姿でした。
彼の手はとっても冷たくて温めようと握っても私の手が凍っていくようなそんな冷たさで、凍る私の手を見て「ごめんね」って言う彼の顔はとても一生懸命でした。
定食屋さんで何食べるか二人でくっついて壁の貼り紙を眺めて、でもほとんど売り切れなのを笑って、そこで夢は終わりました。
その夢から覚めた瞬間、自分の手に残る手の冷たさや、はっきり見えたアディダスの靴。
それが現実にはないことに大泣きしてしまって、思いだしては胸が苦しい一日でした。
でもふと、夜、お風呂の中で思ったのです。
彼は何のために私の夢に出て来てくれたのかなって。
それはきっと、”いない”のではなくて、”いるよ”ってことを教えたくて出てきてくれたのだろうと。
肉体があるなしにこだわるのであれば、”ない”かもしれないけど、目に見えないことを信じられるかずかちゃんならきっと”いる”ってことを信じてくれるよねって、教えたくて、久しぶりに靴を履いて、冷たい手を差し出して出てきてくれたんだろうなって思ったのです。
明日で彼がこの世からいなくなって丸8年。
命日の過ごし方が今までわからなかった。お誕生日のように祝う日でもなく、偲ぶ日ならば毎日偲んでいるし、命日に楽しい予定を入れることも申し訳ない気がしたし、だからといって空白にしておくと心が持って行かれてしまう。
でももうね、泣いている場合じゃない。
もちろんその優しさや温かさや、そばにいてくれることを想い出して涙がでることはあるけど、それでも私はこの8年間から変わらなきゃずっと彼を困らせるような、出会った意味がないような、そんな気がします。
”いない”ってことじゃなくて”いてくれること”に感謝と愛で生きていきたい。
大事な家族や人を亡くして未だに立ち直ることが辛い人に少しでも伝わるといいなと願ってここに記します。
さて、余談ですが、昨年晩秋に、どうしてもお会いしなくてはならないと思った方がいて、なぜか前世でかなりお世話になったような気がして、お礼を言わなくてはと思ったのです。
その方にお会いした時に心の奥底にこみあげるものがあり、それからこの方に昔(前世のどこかで)お仕えしていたなとぼんやり思いだしました。すごく奇妙な話ですが。
加えて、その昔(きっと千年以上前)に私が病にかかり、一生懸命、薬草や医師を手配してくれたことを思い出し、それなのに先に死んでしまい、お礼を伝えられなかった無念を思い出し、だから今世でお会いしてお礼を言いたかったのだと理解しました。
そんな経験を通して、いつかまた時を超えて巡り合うことができる。それを知った。今世ではお別れしてもまたいつか出会うことができる。
下記は私の大好きなセカオワのRPGの歌詞です。
彼に限らず、今世でお世話になった方々に「約束のあの場所で必ずまた逢う」ために私は今日もたくさんの感謝と愛を手渡し”輝いて”生きていく!のです🥰
おしまい。