トンビはタカを産める...のか?
平凡な親から優秀な子どもが育った場合、「トンビがタカを産んだ」なんて言うけれど、これって少しトンビには失礼な言い方じゃないだろうか。
子ども達がどんな「才能」を持っているのか、親にとっては決してノンキに構えていられる話題ではない。少子化になっても一向に衰えない受験競争や、それに打ち勝つためにますます低年齢化する早期教育。
親として、子どもに才能があるならば、さらにそれを伸ばしたくなるし、「ない」ならないで、それはまた何とかしたい、いや、「ない」ならばこそ、早い段階から有名校に入れて…… なんて考えてしまうのか。
その一方で、大リーグの大谷翔平選手や将棋の藤井聡太八冠の様に、非凡な才能を発揮して大活躍している若者を見ると、ついつい我が子と比べてしまって、ああ、ウチの子、カエルの子はカエルだからなぁなんて嘆いてみたりして。
でも、「才能」って天から与えられたものだから、なんて嘆いてばかりいる事もなさそうだ。
人の才能は生まれ持ったものなのか、それとも生まれた後から身につくものなのか、これまた古くから多くの論争や研究があって、才能はまさに「天賦」のものだという考えもあれば、いや、早い時期からの教育こそが、子どもの才能を目覚めさせるのだとする研究とがあるようだが、結論については、実に百家争鳴…
まぁ、ある程度言えるのは、ヒトの個性についてその由来が生まれつきなのか、あるいは生まれた後から身につけたものなのか、単純に割り切ることはできない…と言う事くらい…らしい。
例えば、体格。特に身長については、子ども達は両親から受ける影響が大きい、つまり両親とも背が高ければ、その子どもも身長が高い傾向があるし、小柄な両親の子どもは小柄な事が多い様に、親の持つ遺伝的な要因が影響している事もある一方で、体重の様に、食生活などの日頃の生活環境がむしろ大きく影響している場合もある。
才能についても、ある程度は生まれた段階で両親から受け継いだ遺伝的な要素はある、とは言われるものの、それだけで全てが決まってしまう程には決定的な要素ではない、と言う事らしい。
う〜ん、そうなると、やっぱり早くから英才教育を始める事だってムダじゃないんじゃないの?なんて思いたくなるけれど…
ひと組の親から産まれる子どもは、理論的には社会のあらゆるタイプの人間をカバーすると言われるほど多様で多彩。しかも、どんなタイプの子どもが産まれるのかを親はあらかじめ選ぶ事はできない。最近ではSNSなどで高学歴や高収入の人たちばかりを集めた精子バンクから精子の提供を受けて、人工授精で才能のある子どもを作ろう…なんて宣伝する組織もあるらしいけれど、今のところ、遺伝子レベルでヒトの才能を左右することは不可能とされている。ひと組の親から生まれてくる子どもの、あらかじめ予想できない多様さ、多彩さこそが、一人一人の人間をユニークでかけがえのない存在にしているのだし、早いうちに子どもの特性を見抜くなんて事はやっぱり難しい話。
それに、仮にすごい才能があったとしても、その才能が十分発揮されるかどうかについては、これまた不確定な要素が多い事をその時代や社会の中では決して理解されなかった「不遇の天才」と言われた人たちが少なからずいたことを歴史の中から学ぶことができる。
ああ、親ってなんて無力なんだろう…… って思いますか?
発明王エジソンの言葉として「天才とは99%の努力と1%のひらめきの賜物」だと言う有名な言葉がある。これは「才能よりも努力が大事」と言う教訓だと普通は受けとられているけれど、よくよく考えて見ると、「努力」も「ひらめき」も決してだれもができる事じゃない…… そもそも、本人がこの「1%のひらめき」に気づけるかどうか、って事が結構大事なんじゃないかって考えると、これまた「天賦の才」なのか、と思ったり……。
結局、今の所、「才能のでどころ」について、アレコレ悩んだところで結論は出なさそうだ。
さて、じゃ、親としてどうしようか……。
子どもが大人と一番違うのは、「毎年毎年変わってゆく」と言う事だと思う。それは、単に身体が大きくなって行くだけじゃなく、歩いたり走ったり、泣いたり、笑ったり、泣いたり、怒ったり……
子ども達がどんどん変わってゆく中で、多くの「好き」や「上手」だったり「得意」が生まれ、その中から「ひらめき」が見つかり、それに夢中に、ひたむきに取り組んで行く…親にできる事があるとしたら、よかれと思って引いた線路の上を走らせるのではなく、子ども達が自らの力で多くの「好き」と出会って、その「好き」とひたむきに向き合える、そんな環境を作ってあげて、いつも応援してあげる事…くらいなんじゃないだろうか。
そう、「トンビの子」はやっぱり「トンビ」かも知れないけれど、「タカ」の様にもっともっと高く大きく翔ける様に育てる…って事はできるんじゃないかと思う。