「育てた」のか、「育った」のか……それが問題だ
子どもが減っている。
少子化が止まらない理由はそんなに単純ではない。
先日、今年の出生数は、昨年よりもさらに減って70万人ギリギリ程度になりそうとの予測が発表された。ここまで出生数が減ってしまった今となっては、この先、かなりの社会システムの変革が起こらない限り、もはや異次元レベルで金をばら撒いたくらいではこの形勢を好転させる事は難しいだろう。
いまや減り続ける子ども達は、一人ひとりが社会に取って貴重な存在になっているのだ。しかし、その割には、いつまで経っても子ども達がそんなに大切にされてはいない感じは変わっていないのだが…
社会にとって子ども達が大切な事はもちろんだけど、家族にとっても、一人一人の子どもの存在が大事である事、これは今も昔も変わっていない。しかし、その一方で、親にとって子どもほど複雑な思いを抱かせる存在もないだろう。
子どもはもちろん、自分の分身ではないが、かと言って、他人ではあっても、全くの他人ではない…「わたし」と「あなた」の間、言うなれば、「1.5人称」の距離感にある存在だ。子育ての中で、このなんとも微妙な距離感がこの先、長きにわたって親子関係を悩ます大元になっているんじゃないか。親子の間の「距離感」は、子ども達の成長に合わせて変わって行くものなのだろうけど、親からしてみれば、この距離感が縮むことはあっても、遠ざかる方向に向けることはそうたやすいことではない。
では、逆に「育てられる」方の子ども達から見たらどうだろう…
親や周囲の大人たちの世話なしでは何もできない乳幼児でも、3歳にもなれば一丁前の口をきくようになり、ぐずってわがままを言う様になる。親にとっては、あんなに小さくて可愛かった子がどうして…なんて、ちょっと驚いたり困ったりする、いわゆる「反抗期」の始まりだ。
この世に生まれて3年前後。子どもにとっては、ようやく「自分」が目覚め始める時、それはまず、ストレートに自分の欲求を押し通そうとする行動に現れる。何を聞いても「イヤ」と「ダメ」、そして出勤までの時間がなくて困った時なんか、まるで見定めていたかのように「ジブンデ、ジブンデ」の大騒ぎ…
とにかく、この時期の子ども達は「我慢」を知らない。
まぁ、考えてみれば、生まれてこの方、身の回りの世話は一切お任せで、要求だっておよそ叶わないことなんてなかったワケだから、そりゃ、自分の欲求が通らないとなれば、騒ぎたくもなるだろう。
でも、ここはちょっと冷静になって、子どもの様子をみてほしい。
この時期の子どもたちは、自分がどこまでぐずればその要求が通るのか、そう、お母さん (中にはお父さんも)が言う事を聞いてくれるのか、ちゃんと知っているようで、結局は、そこまではキッチリとぐずられてしまう事になる。ところが、家では何事にも聞き分けがなくて困っている子が、保育園では案外おとなしくしてるようで、素直に言う事を聞ける良い子ですよ…なんて保育園の先生に言われて驚いた事、ありませんか?
そう、親からすればまだまだ小さくみえる3歳児でも、いや、だからこそ、子ども達は自分を取り巻く周囲の大人たちをよくよく観察しているのだ。これを親に対し「甘え」ていると言ってしまうのは簡単だけど、「甘え」が通じる人にしか甘えない、「甘え」が通じなさそうな人や、なんかマズそうな状況ではちゃんとガマンする、そんなしたたかな一面もあると言う事だ。
子どもを取り巻く世界が拡がってゆく中で、この時期の身勝手さを乗り越え、彼らが社会性なるものを身につけるために、ここは一つ、子ども達に「我慢」を教える事が周囲の大人たち、中でも両親の大切な役割なんじゃないかと思う。
ただ、「我慢を教える」って事が案外難しい。と言うのも、ガマンを教えるためには、教える側も我慢しなければならないからだ。
反抗期真っただ中の子ども達とどう付き合うか。
巷には多くの情報が溢れているけれど、親の我慢抜きで、この時期の子ども達と付き合う事は難しい、と言うか、こちらにも余裕、それも時間的だけじゃなく、こころにも余裕がなければならないところがなんとも悩ましいところなのだ。
昔々、ある小児科医の先輩に「育児は育自だね」と言われた事がある。
親はいつまでも子どもを「育てて」いるつもりでいるけれど、子ども達は、と見れば、彼らはいつしか「自ら育つ」存在に成長して行く様だ。
親の役割は、そんな子ども達の育ちに寄り添いながら、案外自分たちもまた育って行く事なのかも知れない。