ピナ・ヴァウシュ~生きること・踊ること~:春の祭典の前に
2006年のインタビューにおいてピナ・ヴァウシュは、自身にとってダンスとはどのようなものであるのかについてこのように答えている。
コンテンポラリーダンスそして、総合舞台芸術「タンツ・テアター」を創設した稀代の振付師・ダンサーである彼女は踊ることを通していったい何を生み出したのだろうか。
今年9月に18年ぶりに日本で公演されるピナ・ヴァウシュ版の「春の祭典」を前に、改めて彼女のダンスについて考えてみたい。
ピナ・ヴァウシュとの出会い
私がピナ・ヴァウシュの存在を知ったのは、放送大学の授業「舞台芸術の魅力」を受講した時でした。
この授業の主任講師であった青山昌文氏が、彼女の作品を鑑賞したことで「人生が変わるような経験をした」と。
いったいどんな舞台なのだろうかと凄く興味を持ったのを覚えています。
その後、しばらくはピナ・ヴァウシュのことは忘れて生活をしていました。
再び彼女に興味を持ったのは、哲学の授業でメルロ・ポンティを扱った時です。
メルロ・ポンティは言わずと知れた身体哲学の第一人者。
実存にとっての身体の問題を思想だけでなく、医学や科学の側面からの考察を加えて規定しようとした人物です。
身体は存在にとって二次的なものなのか?
精神が先行してその後に続く物体としてのみ、身体とはこの世界と邂逅するのであろうか?
現代の私たちにとって、身体ほどそれ自身で精神へと左右する大きな要因はないだろう。
熱いお湯を注いだばかりのポットは触ってみなくても高温であることが理解できる。
なぜだろうか?
それは身体の経験が精神に働きかけるからであろう「触ると同時に触られている」この間主観的な媒体である身体こそが、私と世界とを繋ぐ唯一のきっかけではないだろうか。
個人的にコンテンポラリーダンスとは、このような身体の問題に最も誠実に取り組んだ芸術ジャンルだと思う。
身体の物語論(ナラトロジー)
「カタルシス」とはアリストテレスが『詩学』において悲劇が人々に与える効果について説明するために用いた言葉だ。
舞台の上で起こることが自分の経験と言わばシンクロすることで、特定の感情の増幅装置として作用するというのである。
これは舞台に限らず、近代に誕生した小説や映画といったジャンルでも変わらないだろう。
それらは言わば個人の精神にある感情の記憶を増幅させる行為と言えるだろう。
それでは身体のナラトロジーということは考えられないだろうか。
身体を通して学んだ経験や感情は、再び身体を通して再生産可能とはならないのだろうか。
土方巽や初期のピナヴァウシュの作品は、まさにこの身体を通したナラトロジーを実行したのだと私は考える。
春の祭典以降のヴァウシュの作品はセリフがある、総合舞台芸術「タンツ・テアター」へと移行していく。
より多くの人が、そしてより細かく、身体だけでなく精神にもカタルシスを促す作品へと進んでいったのであろう。
その意味で純粋なダンスをメインとしたヴァウシュの作品として、今回開演する春の祭典は興味深い作品だ。
身体の経験とはいったいいかなるもので、それがどのように実存に影響を与えてくれるのか楽しみである。