ゲルハルト・リヒター展をみて
2022年6月7日〜10月2日まで東京の国立近代美術館にて、現代芸術の巨人ゲルハルトリヒターの個展が開催されていた。
リヒターの大規模な個展が日本で開催されるのは、2005年〜2006年にかけて金沢21世紀美術館とDIC川村記念美術館で開催されて以来16年ぶりのことであった。
今回のリヒター展ではリヒター本人が来日し、各美術館の担当キュレーターとともに展示の構成を考えたという。代表作ビルケナウやアブストラクトペインティングの配置は非常に興味深く、とくにビルケナウの展示方法にはリヒターの世界に対する哲学的なあり方が反映されているように感じた。この記事では私の個人的な私見も踏まえながら今回のリヒター展について紹介していきたい。
ゲルハルト・リヒターとは
ゲルハルトリヒターは1932年にドイツ東部のドレスデンに生まれた。当時ドレスデンは東ドイツ領内であり、ドレスデン造形芸術大学で芸術を学び、卒業後は壁画家としてさまざまな公的機関から壁画を発注されるほどの成功をおさめた。しかしこの時の東ドイツは社会主義陣営の急先鋒であった。当然東ドイツで活動していたリヒターには社会主義リアリズムという思想の表現者という立場が求められた。
そんなリヒターに転機が訪れたのは、1959年のドクメンタ2であった。ドクメンタとは東西ドイツの国境付近のカッセルという古都で、5年に1度開催される現代美術の大型展である。この展覧会でジャクソン・ポックルやルーチョフォンタナらの作品から本人の言葉を借りるなら「恥知らずなほどの自由」を学んだ。
この時以降それまで自身が学んできた社会主義リアリズムと、西側のモダニズムの融合を模索し始めた。その模索は「資本主義リアリズム」というかたちで作品となっていく。
しかし資本主義リアリズムという表現は、その後リヒター本人によって、作品の解釈を狭めるものとして評価されている。
しかしリヒターの基礎に社会主義リアリズムの方法があることは、その後リヒターの代表作となるフォト・ペインティングシリーズなどに現れている。
ゲルハルト・リヒター展
今回開催されたリヒター展は、ゲルハルトリヒター財団及び作家本人が所有している作品群を中心に規格された展示であった。
リヒターは元々あまり多くの作品を手元に残していなかった。しかし今回の展覧会の中心作品ともなった「ビルケナウ」の4枚の作品を市場にださず、手元に残しておきたいというリヒター本人からリヒター財団は設立された。
そして今回、国立近代美術館で開催されたゲルハルトリヒター展の中心となった作品の1つもこのビルケナウである。
ビルケナウのような展覧会のメインとなる大作がある一方で、ゲルハルトリヒター財団の保有する作品には70年代、80年代のアブストラクトペインティングの作品が1点も無く、60年代のフォトペインティングに関しても1点のみといったような偏りも多かった。
今回のゲルハルトリヒター展(東京展)を担当した研究員の桝田倫広氏は元々今回の企画のために、ゲルハルトリヒター財団とリヒター本人から提供された作品の偏りを補うため、ニューヨーク近代美術館(MoMA)が所蔵する15点の具象絵画連作(1977年10月18日)の借用を要請していた。しかし本展の準備期間はコロナウィルスの第1波から第6波に被っていたこともあり、運搬の困難などから了承の返事は得られなかったようだ。
そこで今回の展覧会のビルケナウのカウンターパートとして、桝田氏はビルケナウ以降のアブストラクトペインティングの作品群を据えたようだ。
アブストラクトペインティング
今回の展覧会のメインとなる大作ビルケナウのカウンターパートとして、多くのアブストラクト・ペインティングシリーズが展示されていた。
アブストラクト・ペインティングは80年代にリヒターの作品を構成する要素として導入された、スキージ(シルクスクリーンに用いるへら状の道具)を用いた製作方法によって、絵画制作にある種の偶然性を持ち込むというプロセスであった。偶然性というのはリヒターの代表的な作品群であるフォト・ペインティングにおける、雑誌から写真を無作為に抽出するという行為にもみられるようにリヒターの制作過程でとても重要なものであった。
スキージを用いた絵画制作は制作過程において、作品の全体像を把握することができない。描く、描いたものを観るという行為を繰り返す中で、作品が現れ出てくる。これこそがアブストラクト・ペインティングである。
後にビルケナウの作品紹介でもお話するが、このリヒターの作品制作過程には日本の思想家西田幾多郎の純粋経験に類するものを感じられるとは思わないだろうか。リヒター本人はこの技法について「作為を排すると同時に私は無意識に何が起こるかを予想している」と話している。ここに私は純粋経験と理性の間に弁証法的に生まれる絶対矛盾的自己同一に似た感覚を覚えたのである。
8枚のガラス
「8枚のガラス」は8枚のアンテリオン・ガラスがそれぞれ異なる角度で、スチール製の枠に固定されている作品です。
この写真を見ても分かるように、作品のガラスは周囲のありとあらゆる物や鑑賞者を映しています。映し出された物や人はそれぞれ私たちが直接的に目にするものとは違う角度、違う雰囲気を創出しています。
この作品にはリヒターの創作活動の中心的なスタイルとして「フォト・ペインティング」「カラーチャート」「アブストラクト・ペインティング」「オイル・オン・フォト」といった一連の作品群にも通奏低音のように、響くリフレクションの取り組みが伺える。
リフレクションは「映ること・映すこと」を意味する語ですが、リヒターはこの作品のスケッチの余白部分に「あらゆるものを見て、何一つ把握しない」という言葉を書き残しています。
この言葉が端的に表しているように、我々の前に広がる世界とは実にあやふやなものです。これらに「何が映りこむのか」そして「そこから何か生まれるのか」を常に探究する、リヒターの絵画制作の姿勢をよく表している作品と言えるでしょう。
ビルケナウ
今回の展覧会の中心的な役割をになった作品がビルケナウで、ビルケナウは4点構成のシリーズ作品となっている。この作品のタイトルは強制収容所アウシュビッツ=ルケナウからとられている。
ビルケナウは元々収容所を隠し撮りした4枚の写真を、リヒターが絵画化しよとした試みであった、しかしその試みは挫折する。
リヒターは自らが書き写した写真の模写の上をアブストラクト・ペインティングの技法を用いて絵の具で覆っていく。
今回の国立近代美術館での開催は、リヒター本人と担当キュレーターによってその展示の構成が決定された。国立近代美術館では上の写真のように「ビルケナウ」と対をなすように、ビルケナウを写真でおさめた作品が展示されていて、その間にはグレイ・ペインティングをガラスの板が覆った作品が展示されていて鑑賞者そして作品を映しこんでいる。
この展示方法を見た時に私はハイデガーの「世界-内-存在」というイメージを連想した。世界でのあらゆるできごとは私を通して知覚されている。その私自身はこの世界の内に存在しており、私も無の内に差し入れられている存在である。西田幾多郎の言葉を再び借りるのであれば、我々は自己の場所的限定によって物事を理解している。
グレイ・ペインティングに関してこの記事では説明してこなかったが、グレイ・ペインティングシリーズはリヒターの代表的な作品群である。全ての色は混ぜ合わせるとグレイへと行き着く、始まりにして終わりの色として扱われています。
最後に
今回国立近代美術館で開催されたゲルハルト・リヒター展はこの後、豊田市美術館に巡回します。冒頭でもお伝えしましたが、現代美術の最重要人物の1人でもあるゲルハルト・リヒターの大規模な個展が日本で開かれるのは16年ぶりのことです。
その間に日本ではポーラ美術館が約30億円という金額でリヒターの作品を落札するなど、世界中でリヒターの作品への注目度は更なる高まりをみせている。
多くの恣意的な情報に取り囲まれている現在において、改めて観るとはどういうことなのか。そこに在るとはどういうことなのであるかを考えるのに、リヒターの作品は我々に良いきっかけをあたえてくれるように感じる。最後まで読んでいただきありがとうございます。
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