映画レビュー:『Je t'aime』押井守
押井守の『Je t'aime』は、東京(江戸)から、東京人(江戸民)がいなくなった世界を描いた映画だと思った。
つまり、東京人(江戸民)から、そのアイデンティティが失われた世界を描いた作品なのだと。
だから、東京の街には、人影がまったく見当たらないのだろう。作中に、うどん屋の看板が映し出されるが、蕎麦にこだわる押井監督が、うどん屋の看板を自らの映画に出してくるのも奇妙だ。
台東区の街のあちこちに、乗り捨てられた戦車が見受けられるが、それらは戊辰戦争における、上野戦争の跡を表しているのだろう。
なぜ、この映画の題名がフランス語なのか? 明治維新とは、英国対フランスの、代理戦争の様相があったからなのだろう。英国は薩長同盟を、フランスは徳川幕府を支援していた。
主人公のバセット・ハウンドは、東京にこだわる押井監督のメタファー、雷門を潜ろうとする、そのバセットの前に降りてくる、デウス・エクス・マキナは、キリスト教のそれ、そして、そのバセットの思い出のなかに現れる、彼の飼い主は、徳川幕府のそれなのだろう。この映画は、押井監督の私小説的な側面もあるのかもしれない。
おそらく、この作品を作ったとき、押井監督には、東京に対するこだわりは、既になくなっていたのではないだろうか(ちなみに監督は、東京から熱海へと引っ越している)。そうでなければ、このような作品は作れないだろう。ある問題の渦中にいるときは、それを客観的には捉えられないからだ。どうしても主観的な視点になってしまう。
この映画は、日本文化というナショナル・アイデンティティが失われた、日本を描いた作品なのだと、捉えてみることもできるかもしれない。(私としては、こちらの解釈のほうが、わりにしっくり来る。というのは、個人的な体験が、この映画に投影されるからだ)
江戸は日本、江戸民は日本人、徳川幕府は皇室に置き換えられる。そして、新政府軍と旧幕府軍は、米軍と旧日本軍に置換することができる。(そう捉えてみるならば、そこには因果応報のシステムが垣間見えてくる。日本語が日本から失われなかったのは、そして、昭和天皇が戦犯で処刑されなかったのは、そういうことなのではないだろうか?)
そう解釈してみるならば、その日本とは、かつて、三島由紀夫が予言した、「極東の一角の、ある経済大国」なのだろう(もっとも、その「経済大国」という呼び名すら、今や怪しくなりつつあるが)。
余談ながら私は、三島の皇室への崇拝は、反動形成的なものなのではないか?と穿った見方をしている。というのは、三島も東京生まれ、東京育ちだからだ。
そうだとしたら、三島にとっての天皇とは、石原慎太郎が言うようにバーチャルなものだったのかもしれない。神経症的なものだったのだろう。