「デス・ゾーン」
開高健ノンフィクション賞受賞作「デス・ゾーン」読了。
虚勢を張って、大ボラを吹きながら時代の波に一度は乗ったにもかかわらず、結局自身の虚勢に押し潰された「山に登る人」故栗城史多のノンフィクションらしき作品。
何故「らしき」と書くかというと、今までこれほどまでに作者がくどくど批判と自己弁護と持論の押し付けをあからさまに行うノンフィクションを見た事がないからだ。
何かしらの話の展開があった末尾に必ず「わかったような、それでいて作者の思惑に向かってのあからさまなリード」を付け加える。
ひとつふたつならスパイスにもなろうが、とにかくどこにでも付け加えるので、読む方は自身のバランス感覚を保持するのが非常に難しく、どんどんと栗城否定派にベクトルを向けさせられる。
はっきり言ってそんなリードしてもらわなくても、出発前は大言壮語で登頂を歌い上げてエベレストに行ってはお茶を濁して下山する様を見ていれば、栗城の人間性と「登山家」としての実力が並以下なのは分かる。
そういった、自分のような人間がこの本に求めるものは「何故実力が伴わないにも関わらず、一番難しいルートを選んで死んだのか?」であるとか、「時代の寵児となったのに、どうして滑り落ちてしまったのか」を知りたいからだと思うのだ。
そしてその答えは、恐らく思わせぶりに書き連ねられた本の大部分ではなく、最終章の14ページにのみある。
後に受賞した「開高健ノンフィクション賞」はこの14ページの、栗城史多の本質に迫った部分にのみ与えられたと言ってもいいと思う。
それにしても作者の「自分の意志を人に押し付け、テレビマンらしい虚勢を張る」その姿は、多くの人に批判され、作者もまた執拗に批判した栗城史多その人の生き様と同じ匂いがする。
栗城も作者も同様に、時代という波に乗って泳ぎ切るように見えて、いつしか流れに取り込まれて自身の舵を取る事もできない現代人としての姿を曝け出す事でしか説得力を持ち得ない。
栗城が追い込まれて「死に向かうしかなかった」その事実を知った時、作者は何を感じ、どう伝えようと思ったのか。
14ページしかない最終章が伝えたい全てであったとしたらそれはあまりにも悲しい。
結局、時代をのたうち回った栗城史多の人生が一体何であったのか、彼が結局目指した未来は何だったのかわからないまま本書は幕を閉じる。
ザラザラとした読後感のみを残して。
一つだけ言えるのは、この本を読もうと思ったら「ある程度の不快感とかやりきれなさ」を読後に持つことを認識した上で読んで欲しいという事だ。
それを耐えられるなら、栗城史多という男の真実のかけらは得られると思う。
自分にとっては、そういう本であった。
たぶん、二度と読み返す事はないと思うが。