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舞台 夕凪の街 桜の国 考

さて、今更だけどこの作品について考えてみようと思う。
自分の携わる番組の出演者であるちゃあぽん(西脇彩華さん)の主演舞台として観に行くご縁があり、2023年9月3日の千秋楽、新国立劇場小劇場での舞台を訪ねた。

舞台演劇らしいと言ったらいいのか、ミニマムな空間をフルに活用した舞台に、強烈な反戦メッセージを織り込んだ構成は一本の作品としてとても完成度の高い作品であった。

もとより作品のテーマは重い。
原爆に人生を奪われ、人並みな恋愛すらできずに亡くなっていく女性と、その家族が抱える「原爆」への深い気持ちと「原爆症で無差別に死に追いやられる人」のやるせなさ。

それをこの舞台は能動的にある時は攻撃的に表現してみせる。
なによりも驚きなのは、これほどの攻撃的な表現に変えたのにもかかわらず、作品のテーマは原作から1ミリもブレてはいない。
それは哀しみを表面に纏った戦後パートでも、一見底抜けの明るさを見せる現代パートでも変わらない。
「だからこそ、戦争はあってはいけない!原爆なぞ存在してはいけない!」という強い意志を伝えてくる。
これが役者の魂がダイレクトに伝わってくる舞台の力なのだな。

しかし同時にこうも思う。
そもそもこの作品を題材にする必要はあったのだろうか、と。
こうの史代先生の原作はもちろん、この舞台のような形で描かれてはいない。
戦後パートは被爆者としての容赦ない死を迎えなければいけない主人公の「それでも私は私として生きていたい」という心の叫びの物語であって、表面的には攻撃的なメッセージは見えないし、現代パートにおいても、姉を無惨にも失うことになった弟の「後悔と懺悔の想いの物語」をその娘の目線で描く(故に弟の深い想いや悲しみの姿は直接描かれる事はない)という構造を取っており、爆発的な感情の表現は出ては来ない。
感情を爆発させる事で主題を明確に描いた舞台版と、感情を極力押さえ込みながら淡々とした中に哀しみを内包させた原作。
主題は変わらないとして、舞台版のこの形が果たして「夕凪の街 桜の国」なのであろうか。
この疑問が解けないまま、時ばかりが流れていた。
が、先日その舞台でちゃあぽん演じる主人公に同行する友人役の役者さん(森田涼花さん!シンケンジャー のことはちゃん!)にお会いできる機会があり、そこでちゃあぽんすぅちゃんのツーショットを見た瞬間に頭の中で「ぱちん!」と弾ける音がした。

言っておくがこの二人、役に入っていても原作から考えると微妙にキャタクターが違う。
ちゃあぽん演じる主人公七波は、原作より穏やかで女の子らしいキャラクターになっていたし、すぅちゃん演じる七波の友人東子は、原作と重なる部分は多いものの、もっと強固な芯のあるキャラクターとして演じられているように見えた。
なのにこの二人の並んだ姿は、原作の七波と東子そのものだった。
もちろん仕事終わりのプライベートの二人なので「リアルちゃあぽん」と「リアルすぅちゃん」なのだが、その寄り添い、会話する姿に原作での七波と東子の姿が完全にダブったのだ。
その時だ。
こだわりがぽろりと剥がれ落ちたのは。

「あ、そうか。原作者が私小説的に表現した作品をそのまま描いたとしても、その魂の深淵まで描く事は不可能なのだ。
ましてや演出家の意思が入って演じる人が変われば、キャラクターも変わるし言葉の解釈も変わって来る。表現方法が変わるのは当然の事なのだ。
必要なのは言葉や表現方法を変えたとしても、変わる事ないテーマと作者(原作者)の意図を的確に観客に伝える事なのだ。
そしてそのためには役者一人一人の作品の深い解釈と情熱がとても大切になって来るのだ。」

ごくごく当たり前のこの気付きは、もしかすると自分の独りよがりかもしれない。
でも自分が作る立場だとしたら、このアプローチはやはりどうしても必要なものになるだろう。
そう考えた時、ちゃあぽんのあの底抜けな明るさと優しさは、まさに「夕凪の街 桜の国」の主人公に相応しいのだと納得した。
演出の力を活かす演者の力の大切さ。
物語を牽引し、人を惹きつけ感動させる。
その姿は潔く美しい。

もちろん、自分の一番好きな表現は原作漫画の「抑えた」表現だけれど、舞台版の「夕凪の街 桜の国」にも、確かにこうの史代先生の魂が宿っていた。と思う。
違う表現にぶつかった時、容易に否定的になってしまう自分にあって今作の舞台版は、とても刺激に満ちた良い体験だったと言えそうだ。

いや、役者ってすごいわ。
ありがとう、すぅちゃん。
本当にありがとう、ちゃあぽん。
気付けた事に、感謝。

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