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〈迂回する経済〉とサステナブルまちづくり
吉江俊さんが9月に出した『〈迂回する経済〉の都市論』。12月5日にはシティラボ東京で出版記念トークセッションも行うことができた。しかも『ひとり空間の都市論』の南後由和さんとのディスカッションというカップリングで!企画を提案してくれた学芸出版社宮本さんには感謝しかない。
この本は、〈直進する経済〉に対するオルタナティブである〈迂回する経済〉というキーワードからパブリックライフの意義を解いていて、主に事業者に対して「その方が(社会・公益的な便益も両立するので)合理的で持続的だよ」という「計画」論を説いている。
ただしもう少し突っ込むと、近代都市計画が排除してきた「即自性・再帰性・共立性」を問い直す「価値」論でもあり、統計的な量や属性(「何」)で扱われてきた人間の存在を「誰」という視点から問い直す「倫理」論でもある。なお、12月5日の議論の概要はシティラボ東京のレポートで掲載。
読む人によっても様々な価値を見いだせるだろう。ちなみに僕は、〈迂回する経済〉という言葉に、狭義の「経済」というより語義の「経世済民」に近い感覚を持った。
▼〈迂回する経済〉はイノベーティブか?
実は、まちづくりの世界では「なんとなく」〈迂回する経済〉と同じマインドをもった物言いは結構されていて、例えば、25年前に僕がペーペーだった頃、大規模SC開発事業者のおっちゃんは「実は(こういう大きなハコの中に)”しょんべん横丁”つくりたいんだよね」と言っていた。また、年上世代の都市計画家には「それ(パブリックライフ的な世界観)こそが”まち”なんだ」と言っていた人も多い。だが、”しょんべん横丁”のアイデアは役員会議を説得できず、”まちづくり”の必要性を”まち”という言葉で説明してもまちづくり業界外の人にはトートロジーにしかならないわけで…。
本書は、そういう「なんかあるんだけどうまく言葉にできない、従って周りを説得できない」…というモヤモヤに対して、「経済」という言葉を使いながら計画論に結びつくロジックを明確化してくれたという意味で、まちづくり業界にとってイノベーティブなのではないかと思う。
その上で、個人的にこれを、持続可能なまちづくりという概念から深堀りしてみたい。なお、持続可能性の話をすると、地域/企業を支える外部環境の話と、これからは「地域/企業もサステナブルでなければ」といった内部環境の話が混在するので、ここでは前者を「サステナビリティ」、後者を「リバビリティ」と言ってみようと思う(口語では結構適当に使っているけど…反省)。
▼サステナビリティ:〈直進/円環/迂回〉する経済と〈経済・社会・環境〉
本書でも、〈直進/円環/迂回〉の3つの経済に対して、〈直進〉の持つ一方向性への批判が〈円環〉、短期的・直接的な利益への批判が〈迂回〉という概念整理がされている。一方、本書は〈迂回〉に焦点を当てているため〈円環〉については概要紹介に留めているのだが、サステナブルまちづくりという観点からは〈円環〉と〈迂回〉の関係を深堀りしたいところ。
改めておさらいすると、各々の「経済」は下記のような特性を持つと言えるだろう(ここから後は僕の解釈と意見になっていくのでご留意のほど)。
〈直進する経済:リニアエコノミー〉は、グローバル経済、新自由主義的な価値観、株主の利益最大化、資源を使って廃棄物化する…といった、従来型の資本主義的な価値観(もうひとつ「差別化」という価値観もあるがここでは割愛)。
〈円環する経済:サーキュラーエコノミー〉は、自然や資源の観点から資源循環を新たな経済循環に変えていこうという価値観。資源ベースであるため何らかの意味でローカル経済を志向。厳密に言えばPaaS型はローカルに縛られないかもしれないが、少なくとも内需志向型なので経済成長という意味ではドーナツ経済に収束(していく気がする)。
〈迂回する経済:ラウンダバウトエコノミー〉は、場所や人といった各々の社会がもつ「小さな合理性」を根拠として、社会・公益的な便益とセットで経済を循環させていく価値観。必然的にローカルまたはテーマ型のコミュニティ(「推し」?)が主要な舞台。経済成長という意味では「多様な便益」の中の一つとしての位置づけ。
他方、サステナビリティの世界では、〈経済・環境・社会〉のバランスを「トリプルボトムライン」として捉える主要な考え方がある。これをベースに考えると各々の「経済」の意義は、以下のように捉え直すことができるのではないか。
経済≒〈直進する経済〉が完全になくなる訳ではない。人間の根源的欲求としての「欲」を無視する議論は砂上の楼閣だろうし、世界的に見れば生活の基礎が整っていない国ではまだ「成長」も必要。ただし、もはや資源略奪・成長至上主義的な〈直進〉はあり得ない(なお、成長率・利回りの考え方から言えば〈直進〉ですらない経済ゲームの怖さもあるのだがここでは割愛)。
環境≒〈円環する経済〉を普及・定着させていく/〈直進〉にインストールしていく必要がある。これは、人間が生かされている生物・資源的な環境を保全・再生していくために必須。ただし、実現するためには〈直進〉以上にシビアな効率性も求められる。
社会≒〈迂回する経済〉を普及・定着させていく/〈直進〉にインストールしていく必要がある。これは、人間や地域が持つ小さな欲求をドライバーとして社会・公益的な便益を高めていくために必要。ただし、迂回しつつもどこに向かうのかという課題は残る。
3つの経済は矛盾するのではなく、
〈迂回〉があるから共感が得られて〈円環〉も進む
〈円環〉があるから〈迂回〉もサステナブルな方向を目指せる
〈迂回〉と〈円環〉があるから過度な〈直進〉が抑えられる(環境や社会を追求しながら利益も追求するバランスを探れる)
さらに言うなら、〈迂回〉と〈円環〉は文化や価値観、アイデンティティに深く根ざしている
図にするとこんな感じ。これらのバランスをグローバル〜ローカルのレベルに応じて社会的に合意していくことが大事。
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なお、参考にしたのはドイツニュルンベルク市の「持続可能な都市計画」の概念図(本資料)。3つをつなぐ「◯」の表現は、ドーナツ経済の考え方を反映させたかったのだがチカラ及ばず… 。
以前、ウォーカブルをテーマにしたセッションのタイトルで、「正しさと楽しさ」という言葉を使ったことがある。環境的な側面を「正しさ」、心理的な側面を「楽しさ」として、その両者が必要だという想いを込めた。「正しい」だけではものごとは動かない、「楽しい」だけではものごとの意味はない。
また、自治体の脱炭素をテーマにしたセッションでは、脱炭素を前面に出すのではなく、市民・就業者の交通問題や団地の老朽化といった、行政も市民も企業も「全市的に共有できる課題」への対応が施策を推進させるドライバーとなっていた。成長期ではガイドラインやボーナス制度による誘導も有効なのだろうが、成熟期(低開発圧力)の日本では、「脱炭素」だけでは政策は動きづらい。
〈円環〉と〈迂回〉も似たような関係にあるのではないだろうか。
▼リバビリティ:「多様なステークホルダー」の価値観
本書では、著者の「民間事業者をエンパワーしたいという想いがあり民間事業がフューチャーされている(ちなみに、12月5日イベントでは公共事業も含むパブリックスペースの可能性へも議論が展開してそれはまた面白かったので興味ある方はレポートを読んでほしい)。
少なくともコストをかけてなんらかの事業を行うのであれば、「みんな」に愛されるものにしたいという気持ちは、民間事業者にかかわらず行政も市民も共有できるであろう。民間事業者は事業の成功に繋げたい、行政は公益性を担保したい、市民は自らの暮らしに沿うものにしたい…。そして、そんなまちは住み続けたい(リバブル)になっていくはずだ。
一方、現代の社会ではステークホルダーやニーズの「多様化」が進んでいることは言うまでもない。高度成長期レベルであれば、年代や性別、収入といった幾つかの属性によるマスマーケティング的な話で済んだが、そのようなレベルではすまない多様化の世界で「みんな」をどう考えるか?
そもそも、「多様性」から計画をスタートすることができるのか?(分析は言語的に抽象化していけるが、計画者は具体化しないといけない)。もう一つ、(多様化により価値感がますます異なっていく(可能性が高い)ステークホルダー、事業者であれば上長、行政であれば議会や市民、市民であればご近所…をどう説得できるのかといった問題もある。
結局、地道で手間はかかるのだが、属性ではなく「個」の「参加」から始めるしかないのだろう。「多様」とは属性の種類ではなく、各々の「誰」の集合という考え方。また、「誰」というと属人的にしかならないように思えるがある「誰」が他の「誰」を呼んできて、小さな「みんな」がたくさんできていく、各々の「誰/みんな」と「まち(地域・開発・公共空間…)」の間に様々な「タッチポイント」が増えていくまち。トータルで見れば必ずしも100点満点ではないかもしれないが、各々が独自の「合格点」を持つという価値観(別の言い方をすれば「自分ごと」か)。
なお、上では「説得」という言葉を使ったが、実は「説得してはいけない」という考え方が大事。だいぶ昔なのだが、PI(パブリックインボルブメント)という市民参加を行っていた時に言われたのは「統計グラフを出すな(=多数決で決めるな)」ということであった。多数決は「負けた」少数派には必ず「不満」が生じる、その蓄積は結局はプロジェクトの致命的な障害になるという理屈だ(そうは言いながらも、クライアントの要望もあり色々と苦労したのだが…)。
実は、少なくとも真っ当な「まちづくり」であれば、伝統的な市民参加にしても、プレイスメイキング(Power of 10+)。にしても、タクティカルアーバニズムにしても、「価値」や「倫理」は共通するはず。
なので、〈迂回〉の意義はやはり直接的には(「価値」や「倫理」を背後に含みつつ)それを「経済」という事業者と計画者が目線合わせができる「計画」論につなげているところにあるのだろう。
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事業的な目標が想定されていても、あえてちょっと「ずらし」てみて、そこで得られる便益を想定したり、社会実験で計測してみる。そんな繰り返しが、色々な人にとっての色々な「よいこと」を生み出していく…。
逆に計画者としては、事業者とのタッチポイントは維持しつつ、行政や市民に対して「誰」という視点を失わないように配慮しながら、様々なタッチポイントをつくっていく。さらに、空間や時間、内容(「正しさ」や「楽しさ」)を総合的に整えていくことが役割なんだろうな。
※なお、タイトル画像はAdobeの生成AIお遊び(プロンプト:迂回する経済 サステナブルまちづくり sustainable urbanism environmental social economy linear economy circler economy roundabout economy)