この世界の片隅に

何かに魅入られて、いつの間にか

精神を置き去りにした身体が震えていたこと

あらかじめ決められた筋道を疑いながらもいつの間にか置き去りにされていた理性

はじめて知る感官のうわつき

その対象を知ることのない触発

そうした諸々のすべてが、いまもまだ残っている。

ひょっとしたらこれは、単にいま自分の理性が衰えて、感覚だけが過剰に肥大化して、なにかこうした目新しい変化をもたらしているだけで、相も変わらずすべての感動を対象物の優れた才覚の手柄に委ねたがる理性の働きのめzしているものなんて、そこには一切なかったのかもしれない。

こんな荒唐無稽なことをすら真面目に考えてしまうに十分な理由はいくらでもあった。例えば、今日は久しぶりの雨で、突然下がってしまった気圧のために、自分の神経がなにか普段と違った働きをしているとか。外気のべとつく生ぬるさにとってはすこし重ねすぎた服装のせいか。今朝、不自然に早起きをしたせいで、自分の足取りさえもなにか異なるリズムを刻み出すような気がしているせいか。そのいずれでもない何かに、自分の気付かないうちに、なにか細工を施されていたのかもしれないし。

なんにせよ、いま自分が自ら出で立ちそこにとどまっている状況は、いつものそれとは異なるということだけははっきりしている。

それで、もしそれが外気や人並みや偶然の何者かのせいであるようなら、それすらも必然に定められたことの上にある、のだろう。

あらゆる状況と条件のなかで、この感覚を与えられたという確かさ。

奇妙なのは、これらの諸感覚を自分に与えたなにかが、もはや捕らえようもないほど遠のいてしまっていることだ。

いや、これは奇妙なことではなくて、実際、現象の、ないし啓示の現出の瞬間、とか、崇高、とか、顔、とか、いろいろな人が語ったいろいろなことが、今まさに切迫して自分を取り巻いているのがわかる。

奇妙なのはそのことではなくて、むしろ、そのことがこんなつまらない映画の一本によって、もしくはその平凡極まりない描写によって、みごとに現実味を帯びてしまったことの方だ。

デカルトにはクソヤローといいたいし、ハイデガーなんぞバーーカって感じ。

ジジェクもバルトもドゥルーズも嘘っぱちだけど、一方で、何人かのユダヤ人がほくそ笑みながら、ほらね、言ったでしょ、というような顔をしているし、そいつらの肩の上には小人みたいにマリオンとかロマノとかがひっついてる。

さすがに、何千年もこき下ろされてきた民族のいうことは伊達じゃあないのかもしれない。存在それ自体とか、包摂とか、コギトとか、そういうのはもう暖炉に入れて燃してしまえば、焚き付けくらいにはなるだろうし。

完全に出来事化した映画ということ、結局それだけがこの映画を下支えする、最もシンプルかつ力強い構造だった。

筋書きは、前−認識的にわかる。これから起こるべき惨事は、知識として知っている。映画をみるということにおけるそういう先験的なものが、ある決定的なシーンで全て追い越される、即座に、確実に。

そのシーンの前後の全ては、それ一点中心に思考と感覚を再構築する時間に充てられる。前振りとして長すぎるくらいの前半部は、あらゆる枠組みを脱中心化して、そこに託されていた意味を徐々にずらしていくために周到に用意されていた。

待ち構えたように口を開けるあらかじめきめられた終わりの以前には、善くそれを迎えることの努力のほかにひとにできることなどない。そしてその終わりのあと、今度は前を向きながら交代するように、その一点を新たな中心に据えた構造物を再我有化するように要請される。涙はその構造物の基礎を固めるセメントのようなもので、諸々の感覚はそこに住まうことを目指しての旅立ちの足取り。

それにしても、己から出で立ちまた源泉に立ち戻るような自同性もなく、活力もない。放蕩な非嫡出の感情が、転々とあちこちに居を移す、そんな不安定さのなかで、新たに世界を創設し続けていく試み。

はだしのゲンは退屈だし、堕落論は余計な御世話、反体制なんて昭和のゴミの残りカスだけど、この映画は違ったね。

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