[感想] 20, 3, 2020
ちょいちょい展示を見に行くものの、そこで感じたものを少々書き留めたりする程度で、その後ほとんどの感覚を忘れてしまうのでややまとめたメモをとっておこうと思います。練習。
行ったのは以下の展示。初台の東京オペラシティアートギャラリーで開催されていた、ライアン・ガンダーが選ぶ収蔵品展を見てきました。ライアン・ガンダーによって選ばれた収蔵品が通常とは違う形式で展示されていました。
展示方法は大きく2つに分かれており、その途中にproject N とされる東京オペラシティアートギャラリーの若手作家の育成、支援を目的とした展覧会シリーズが順路に含まれていました。
展示構成
1. 「色を想像する」Colours of the imagination
(project N 作家:松田麗香さん)
2. ストーリーはいつも不完全……」All our stories are incomplete...
1. 「色を想像する」Colours of the imagination
故寺田小太郎氏のプライベート・アイ・コレクションである当館収蔵品の成り立ちと、寺田氏が収集のテーマのひとつとしていた「ブラック&ホワイト」に呼応して、黒と白のみの世界を構成します。展示方法にも一工夫が。欧米の美術館では、個人の邸宅における伝統的な美術品の飾り方にならって、大きな壁面の上下左右びっしりと作品を並べる「サロン・スタイル」が採られていることがあります。寺田氏個人の視点で集められ当館コレクションの特徴を踏まえ、作品はこの「サロン・スタイル」で展示されます。
(公式サイトから引用)
展示作品は、壁一面に所狭しと並んでいます。(壁面1) その壁面と向かい合わせの壁面に、展示壁側の作品の配置と鏡写しの配置で、絵画の額のサイズや、什器のサイズを形取った黒い線が書かれていました。(壁面2) 線と共に作品のキャプションが壁に取り付けられています。まるで作品の中身だけを取り出したような展示壁になっていました。この二つの展示壁で空間が構成されていました。
私は個人の住居などで、複数の作品を一度に見るような経験はなく、複数の作品をまとめて見るという状態はギャラリーでの体験でした。そのため、必ずキャプションと作品は必ず同時に鑑賞するものでした。
壁面1では、作品のタイトルや作家、年代を想像し、壁面2では黒の線から得られる作品の大きさとキャプションの情報から作品のビジュアルを想像しました。
ギャラリーでは答え合わせをしていくような見方で鑑賞しました。
もともと特に抽象画を見る際は、すぐに説明をもとめて、タイトルをみてしまうため、キャプションがすぐに見れないという状態は、そこで自分が何を感じるのかという思考を自発的に促しました。そもそも自身で作品を制作するときもそうであるが、タイトルから作品を考えることは普段しません。例えば、「雨」というタイトルからは、それが小雨であるのか土砂降りの雨であるのかの判別はできないが、その作品が雨にフォーカスしたものであるのではないかと想像する。作品サイズが大きければ、開けた場所を想像する。ギャラリーの壁にキャプションとサイズの指定さえあれば、作品のある意味での鑑賞が成立することは意外であった。想像は必ずしも一致しないが、考えを巡らせる作業こそが重要であり、むしろ2度楽しめるという意味では、あまり見方を知らない身にとってはありがたかったとも感じました。
作品を制作した作家本人にとっては、この展示方法は作品に対する理解を誤解させることになるかもしれないという意味で望まれないかもしれない。その点において、今回は貴重な展示だったと感じました。
また、続きで鑑賞したproject N の松田麗香さんの作品をみて、そもそも現代で絵画をみることの特徴の一つはRGBが0〜255といったように、限定されない色の階調の鑑賞にあると思いました。サイネージやサブスクリプションによって、圧倒的に映像上のコンテンツに触れやすくなった現代ですが、そこでの色の受容はそのモニターの表示できる階調に限定されてしまいます。松田さんのグラデーションで構成された画面を、外光に照らされる展示空間で鑑賞すると見る場所や角度によって色の見え方が微妙に変化します。こうした色の感じ方は当たり前のことではありますが、スマートフォンばかりをみているとついぞ忘れそうになってしまう感覚です。色に対する認識の仕方を思い出させられました。
《そこにある、それもまた 127》 松田麗香
(実際に撮影したもの)
2. ストーリーはいつも不完全……」All our stories are incomplete...
ここでは展覧会には当たり前にあるなにかが欠けています。それは「照明」です。来場者は入口で懐中電灯を取り、うす明かりの展示室内で作品を見るために自ら光を当てることになります。「あたりまえ」を「あたりまえ」と片付けず、そもそもを問い直すことは、ガンダーの制作姿勢の特徴のひとつです。来場者が「見たい」という気持ちを再確認するこの仕掛けは、通常の照明に照らされた展示では見逃してしまっていたものごとへの注目や、全体をもっとよく見たいとあちこちを照らすことによって、ひとりひとりが作品と一対一の親密な関係を作る機会となるでしょう。
(公式サイトから引用)
薄明かりだけの順路を小さな懐中電灯をもって移動し鑑賞します。なんだかギャラリーに忍び込んだような気分になりました。まず、鑑賞をし始めて感じるのは、遠目では色を正確に捉えられないことでした。懐中電灯のあかりはさほど強くはないので、作品全体を照らすとコントラストが低い絵のように感じます。しかし、近づいて部分を鑑賞するとじつは鮮やかな赤であることに気付いたりします。同様に、描かれている対象の描写が細かいほど、何が描かれているかを確認するためには近づく必要が生じます。作品が大きくなるほど、一度に明るくして見れる作品の部分は限られます。
この全体と部分の鑑賞において普段より極端に解像度に差が出る鑑賞は、なんとなく全体を見たときには注目しなかったかもしれない、部分ごとの色の配置や、小さく書かれている人物や、模様、質感などに私を誘導し注目させます。一度に全体を高解像度で見るという当たり前な鑑賞の方法を犠牲にすることで、見過ごされがちな部分たちを主役にする展示方法でした。普段からそうした見方ができている人には必要のないことかもしれませんが、自分にとって一つの見方のトレーニング?またはリハビリ?のようなものに感じました。
例えば、相笠昌義さんの《駅にて:夜》という作品は駅のホームを描いた作品ですが、現地では懐中電灯で一人一人を照らすようにして鑑賞しました。部分に注目して鑑賞すると、一人一人の人間は表情は細かく書き込まれていませんが、見つめている方向や姿勢の違いが分かり、どのような人であるのかを想像させられます。実際に深夜に駅のホームで向かい側を見つめている時と同じような感覚を平面の鑑賞に得ました。
《駅にて:夜》相笠昌義
(東京オペラシティアートギャラリーのサイトより引用)
懐中電灯で照らすことの特徴は、他にも作品の光の演出を鑑賞者自身が行うことにあると思いました。凹凸の大きい絵画や彫刻作品などは、影が大きく、その現れ方が照らし方によって変化します。松谷武判さんの《雫》は、黒地に分厚く膨れるように画材(おそらくボンド?紙?)が置かれている作品です。薄暗い中で、この作品を照らし出すと、平面を照らしたつもりが、画面上にこのふくらみが落とす大きな影が現れます。この突然の影が異様な存在感を生み出し、私は作品に引き込まれました。絵画に私自身が光を当てて影を与えるという体験は非常に異質でした。
《雫》松谷武判
(直方谷尾美術館のサイトより)
さらに彫刻作品になるとその影響は顕著になります。以下の画像の作品とは異なりますが川上力三さんの《風の道》は道の終端に小さなまたは細い隙間があり、懐中電灯で照らすと後ろの壁面にその隙間が大きく影の中の光として現れます。光を生み出すことでそこに道が通じていることを時間しました。影を自ら与えることは構造の確認という効果、鑑賞方法も生み出します。
《風の道》川上力三
(Let's Enjoy Tokyoより)
展示後
ギャラリーを出たところで急に外光に包まれました。懐中電灯で照らしてなんとか色を確認しようとしていた状態から、急に鮮やかな世界に放り出されるので、やや感動を覚えます。晴れた日の明るいうちに行ったのはよかったなと思いました。こうした鑑賞のあとではモニターを作品に使うことはなんだかバカバカしいような気分にちょっとなります。サイネージもよりいっそう鬱陶しく感じます。昼間でも夜でも風景に目をやることを忘れないようにしようと思いました。雑な感想ですが。あと、分かりやすく触発されて西洋絵画の見方的な本を買って帰りました。普段の鑑賞でも自発的な部分への注目ができるようになりたいところです。
あと、懐中電灯は途中で何度か明かりが弱くなってしまい、都度スタッフさんに変えていただきました。なんだかんだ少しでも電気を使った要素を展示に組み込むとケアが大変だなというのも地味ですが大事な再確認でした。