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最近思ったこと

蝉がいない。
大阪に帰ってきて真っ先に感じた違和感。

騒がしい蝉たちの喚きに呆れながらも夏の到来を感じていた去年。
朝から晩までシャワシャワと不協和音、アブラゼミの合奏は
20年近く住んだ大阪の街では当たり前だと思っていた。

同じく四方八方袋小路に押し込められたように、
蝉の合唱を毎日のように聴いていた秋田の森。
木々に囲まれ、悠々と虫たちが飛び回る。
ガタイのいいアリたちの労働と、張り巡らされるクモの巣。
いつも座るベンチで、うんざりしながらも同時に自然の豊かさを心から楽しんでいたのかもしれない。
そんな喧騒から離れて都会に戻ってきたのも束の間、
絶え間ない違和感と焼きただれるような暑さにめまい。
そして一体どこに。

しばらく1年空けていただけで全く変わってしまった。
諸行無常とかのレベルじゃない、
緑の小道と称される木々のアーチは、
ぽっかり天井が空いてしまった。
真夏の陽から隠れるための風そよぐ通り道は、
カラカラと乾燥してしまった。
街の中心に位置する大きな運動場は、
聳え立つフォーラムとして埋め立てられ、
邪魔な木々はすっかり伐採されてしまった。

本に囲まれた魅力的な読書空間、
そして子育てにも特化したサポート空間、
7階建ての市民をつなぐランドマークとしてのフォーラムは、
安全を確保してくれるくらいに十分である。
エアコンが完備され涼しいながらにも、
創意工夫の凝らされた遊び心満載の遊具が中に敷設されている。
なんて快適で魅力的な街へと進化したのだろうか。
なんて人に優しいまちづくりを大成しているのだろうか。
いやしかしどうしたものか、十二分には程遠い、
むしろ遠ざかってしまった気がする。

申し訳程度の芝生のエリア、
少しばかりテラスに置かれた花々。
そんなものは目もくれず、
暑さを凌ぐ場所として、
安全すぎるくらいに快適すぎるくらいに、
真っ先に足を向け、入り口へと押しかける。

暑ければこの場所に来たらいい。
遊ぶ場がないからこの場所に来たらいい。
この場所でいいじゃん。

一方、緑の小道のベンチには誰も座っていない。
そそくさと暑そうに気だるそうに。
太陽にさらされた砂利道は熱く干からびてしまっている。
枝垂れ桜の木も慣れない暑さにうなだれて気絶している。
小さなアリたちはわずかなベンチの隙間、陰の狭い区域だけを往来している。
そして、何よりセミの一匹も鳴かずに沈黙を重ねている。

ひんやりと冷えた快適な人工的な空間に身体が固定されてしまうこと。
木々の下に伸びる日陰で一息つくという選択肢を排除してしまうこと。
途方に彷徨うようなこともなく、この場所にまるで服従してしまうようなこと。
これらが子どもたちにも当たり前の存在として享受させてしまうこと。

いつしか木々が生い茂るその中で、
予期していない経験を楽しむようなそんな時間も空間も、
全く剥奪されてしまったような感覚が拭えない。
新たな「発見」ができるようなそんな野生的で可能性に満ちた瞬間は全て、
人工的に最初から用意された場所に奪われているような気がする。
リンゴが空から落ちてきて重力を「発見」したニュートンは、
もう2度とここには現れないかもしれない。

リンゴの木は伐採されて、
干からびた灼熱の土地ではなく皆このフォーラムへと逃げ込む。
そこには丁寧に並べられた綺麗なリンゴが用意されている。
そしてその環境全てを当たり前、必然的なものとして享受される。

いつしかリンゴが木から採れることも、重力も、セミの合唱を経験的に知らないような世代も登場するのかもしれない。なんとも言えないモヤモヤ感が残る。

自然と自分たちは決して分離できないし、むしろその一部であるはず。
結論は遠く出せそうにないけれど、この沸き起こる違和感を大切にいきたい。
また言語化できそうになったら書いていきたい。


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